2012年12月15日

生まれてきてくれてありがとう〜娘のお誕生日に

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朝一番に届いたメールは、今日お誕生日を迎えた娘から。
こちらから先に「Happy Birthday!」を送るつもりだったのに。

メールにはセピア色の写真が一枚添えられていました。
若い母が、生まれたばかりのベビーを抱く写真です。
ベビーの頭にはまるで天使のような光。
病院から家に戻ってきた時でしょうか。
撮られた母も、撮った父も、一点の曇りもない幸せの瞬間でした。
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娘のメールには、ただ一言、こんな言葉が書かれていました。

「だいぶ大きくなりました。」

すぐに返しました。

「その分、ママは萎んで小さくなりました。お誕生日おめでとう!!
素敵に幸せな新しい風が優しく吹き始めるよ。
ママの子でありがとう。生まれてきてくれてありがとう。」

そして、また、あの動画のような絵をなぞり始めました。それは、これまで何度も何度もなぞられた絵でした。眠りに就く前には必ずその絵を思い浮かべました。随分長い年月、その習慣は変わりませんでしたが、良くも悪くも様々なことが起きるうちに、いつしか記憶の引き出しの中にそっとしまわれました。

私は「マイエフテリオン・アシノン」というアテネの病院にいて
教えられた通りに、痛みを和らげるための呼吸をし
言われた通りに力を入れて、言われた通りに力をぬいて
ふーっと気が遠くなって
朦朧とした頭で目覚めたら
誰かが私の頬をポンポンと叩いて言いました。
「コリツァーキ、コリツァーキ! (女の子、女の子!)
男の人の声だったような気がします。
私はベッドの上で、フワフワと幸せの中に漂よい始めました。

今日私は引き出しを開けて、久方ぶりにあの絵を取り出しました。そして、再びフワフワと幸せの中に漂いました。

16時半、娘のお誕生日を祝うために都心へ向けて走り始めた車の中で、ラジオから流れてきたのは「ひまわり」という曲でした。なぞっていた絵にその言葉が重なって、運転をしながらちょっとだけひとりで泣きました。

  あなたと会えた日は私の記念日
  あなたは私の奇跡、私の希望

  あなたと共に笑い、あなたと共に泣いたり
  どこかで私を感じて
  それだけでいいのよ

  お願い、どこかで笑ってて
  それだけでいい

生まれてきてくれてありがとう。
お誕生日おめでとう!

By 池澤ショーエンバウム直美

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12月14日(土):バレンシアでアメリカン?
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2012年10月10日

2日間の「ゆるゆるほかほかふわふわ」時間

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体育の日の三連休の真ん中の、後片付けも残したままの朝早く、左肩にはいつものバッグ、左の手には雨傘を、かたや右手でガラガラと、キャリーバッグを引きずって、まだまだあります、背中には、リュックサックという姿。

そんな、エレガントとは正反対の恰好で出かけた先は、都心のとある体育館でした。
こうして私のセンチメンタルジャーニーならぬ、「ゆるゆるほかほかふわふわ」の優しいジャーニーが始まったのです。

肩にかけたバッグの中には、いつもの品々。お財布やら手帳やら、カメラやらメガネやら、文庫本やらノートやら化粧ポーチやら。

ガラガラキャリーバッグの中には、お泊りをするのに必要な最小限の物たち。
加えて、家族たちに相談したい案件のパンフレットや書類なども。

背に負ったリュックの中はと言えば、ほとんどが食料です。みんなで作って食べる夕食と朝食の材料と、すでにできあがっている前夜の料理の残り物。ついでにティータイムのお菓子とみんなへのプレゼント。

気づけば事のなりゆきで、運動会を応援した後にぞろぞろと大移動。翌日も賑やかに過ごす合宿プランになっていました。誰かしらが笑って、いつだって卓球のようにポンポンと球が行き交い、楽しくなごやかに時が過ぎていき、、、、

いつの間にやら私の頭も、心の中も、「いらいらあくせくおたおた」の芽が完全に摘まれてしまって、クリエイティブからもプロダクティブからもアラートからもスマートからもほど遠い「ゆるゆるほかほかふわふわ」状態。

「ねえ、グランマ〜」と呼ばれるたびに、「はい、はい」とゆるゆるし、おんぶをしたままお馬さんになってパッカパッカと走れば、息切れをしながらもほかほかし、この無垢の子を守らねばという緊張感はあっても、家族の中で安心して完全自然体でいられることの、ふわふわした心地よさ。

移動で車に乗るたびに、チャイルドシートの子にあきれられます。
「グランマ、また寝ちゃったよ〜。」

そんな2日間を過ごし帰ってきた後は、まだまだ通常モードには切り替わりたくなくて、ブログもちょっと小休止(笑)。

ところで、子供たちの運動会というのは、どうしてこうも涙腺を緩ませるのでしょう。這い這いをしていた赤ちゃんが今年はよちよち歩きをしていたり、去年は泣いてばかりいた子が堂々とお遊戯をしていたり。まわる縄に何度足をひっかけても跳び続けようとする子もいれば、リレーの途中でころんでも自力で立ち上がって一生けん命走る子、先生の補助なしで逆上がりができて輝く瞳で胸を張る子、小さな子たちの面倒をみる年上の子供たち、、、、、

周囲を取り巻く大人たちは、「頑張って!」「ほら、もう少し!」「すごい!」「やったね!」などと知らない子供たちにも呼びかけながら、縄跳びの縄がまわるたびに、誰からともなく、「いいち、にい、さあん、しい、ごお、ろおく、しいち、はあち、きゅう、じゅう、、、、」と一緒に数え始めます。

がんばった子供たちは、一番も二番もなく、みんな同じご褒美をもらいます。
声援する大人たちは、自分の子にも人の子にも、自分の孫にも人の孫にも、惜しみない拍手を送ります。

ここもまた、たとえ束の間かもしれなくとも、「ゆるゆるほかほかふわふわ」の優しい空間でした。

銀座でセミナーに出た今夜、帰りがけにタイミング悪く小田急線の人身事故にひっかかり、新宿駅のごったがえしたホームで長いこと待たされました。おかげで家に帰りついたのは、予定より1時間以上も遅い深夜となってしまいましたけれど、まだ残っている「ゆるゆるほかほかふわふわ」貯金のおかげで、「いらいらあくせくおたおた」しなくてすみました。

By 池澤ショーエンバウム直美

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10月9日(火):蕎麦打ちという一大マジックショー
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2012年07月30日

ネットワークに送られて

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突然の事態の中での大きな決断は、このまま日本で入院をさせるか、本人が希望をするように、リスクを承知の上でアメリカの主治医のもとに移すか、というものでした。「移す」と言ったって、そうそう簡単なものではありません。

朝の6時半には家を出て、車で首都高から東関東自動車道に乗り、一路成田空港へ。チェックインをして搭乗までの時間を過ごし、飛行機が飛び立つまでにすでに4時間半が必要です。フライトタイムは太平洋を東から西へ向かう時の14時間5分よりは少ないものの、12時間35分です。着陸したとたんに機内から飛び出るわけにも行きませんし、イミグレーションの列に並んだり、荷物を取ったりで、空港からタクシーに乗り込んで家に着く迄には合計19時間やそこらはかかるでしょう。加えてマイナス13時間という時差の壁も、体力を消耗させます。

それでも夫はアメリカに移ることを強く望みました。もともと人の悪口と弱音は吐いたことのない人です。「成田まで送ってくれれば後はひとりで大丈夫。君は目先の事を整理してから飛んでくればいい。」などと気丈なことを言うのです。

たしかに、とても困ることがいくつかあり、自分自身の決断ができずに途方に暮れました。こんな時にはいつもの家族ネットワークです。現状を説明すると、すぐに返事が届き始めました。それぞれのメッセージが私のへこんだ心のカンフル剤になり、大きな支えになります。

「お手伝いが必要な時はいつでも遠慮なく言ってください。とにかく様子を知らせてください。様子次第では駆けつけます。どんな決断にしろ、今は妻として一緒にいるのがよいと思います。あとのことは微力ですが私たちで見守ります。心配しないで行ってください。」

「ママの気持ち的に付いていくべきかと思う。日本に残ってやきもきするより、多少のことは犠牲にしても一緒に行ってお世話できる方がずっと気持ちが楽だと思います。」

「そもそも正論は日本で治療をする、だと思うけれど。この先たくさん病気もするだろうし、その度に帰国するのは危険だと思う。アメリカと日本でそんなに治療の差があるかしら? 完全にメンタルな問題だよね。東京だって英語で治療を受けられる一流の病院があるし、そうした所の個室でゆっくりするのがいいと思います。読書し放題のパラダイスかもしれません(笑)。日本に住むという覚悟があれば、病院だって体験すべきだと思う。日本の家族としてはちょっと寂しい気もするね。でも、アメリカに行くと決めたならママは一緒に行くべきだ。そして、落ち着いたら、今後また病気になった時のことをよく話し合った方がいいよ。東京に英語が話せる主治医を見つけて、アメリカの主治医とカルテを共有すべきだと思います。
とにかくこちらのことは心配しないで行ってらっしゃい!」

そんな言葉に送り出されてやってはきたものの、いやはやなかなか大変です。けれども、アメリカの医療システムについて初めて学ぶ良い機会にもなっています。あまりに日本と違うのです。また落ち着いたらそこらへんのことも書かせていただきます。

二度とこんな風にあたふたとしないこと、そのためには娘の言うように英語が話せる東京の主治医を見つけること。そんなことを心しながら、誰しもがみな老いていくことへの覚悟をあらたに、先へ歩いていかねばなりません。

写真は5時半の朝焼けです。

「There is something infinitely healing in the repeated refrain of nature-
 the assurance that dawn comes after night,,,,,,,,」 (Rachel Carson)

 夜の次に朝が来る確かさ、自然が繰り返す癒しのリフレイン。 

池澤ショーエンバウム直美

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7月29日(日):スーパーマーケットの夏
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 21:43| Comment(0) | 家族

2012年06月24日

最高のおばあちゃんだったよ

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5月17日に亡くなった義妹のジュディーの追悼式がシカゴで行われたのは、その1週間後のこと。出ることができなかったその集まりの場で、参列者に渡された小冊子がここにあります。中綴じのA5サイズで12ページです。

表紙に印刷されているのは、若かりし頃のジュディーが花のように微笑む写真、生まれた赤ん坊を抱く横顔と、健康を謳歌していた頃のバカンス写真、そして手術後の彼女にカメラを向けた弟に、ふざけてマックのPCで顔を隠す、生前最後の写真の4枚です。最後の写真だけがカラーです。

写真の間には彼女の名前と共に、生まれた日と亡くなった日が書かれています。その表現が素敵なのです。こんなところにも文化の違いは表れます。

Born to Life September 11, 1943
Born to Eternal Life May 17, 2012

現世に生まれた日と、永遠の人生に生まれた日、つまり2つのお誕生日が並んでいるのです。

ページを開けば、いくつかの美しい詩が並び、また何枚かの写真が並び、また詩と写真。引用された詩もあれば、家族が書いた詩もあります。妹のコニーが書いた詩はとりわけ美しく響きます。

私たちが覚えているのは楽しかったことばかり
いつも一緒に登っていたリンゴの木
苺がのったアイスクリームコーン
ギリギリとねじを巻いては
ずっと止まらなければいいのにと思っていたオルゴール

目の前の風景は時間と共に薄れていっても
一緒に居た心の中の風景は
どんなに時間がたったって消えやしない


けれども、それにも増して心を打つのは、小学生になったばかりの小さな孫が書いた、たった9行の作文です。隣のページでは、Mema(おばあちゃん)に抱っこをされた少年が、動物園で真剣に象に見入っています。

My Mema 
Mema was really nice to me and my brothers.
She would play basketball and baseball and
games with us and took us to fun places. She
would joke around with us and make us laugh.
We had sleepovers with her and we would watch
funny movies and she would take us to the park.
She was the best Mema ever and we love her
very much.

(おばあちゃんはいつだって僕と弟たちにとても良くしてくれた。一緒にバスケットボールもしたし、野球もしたし、面白い場所にもたくさん連れて行ってくれた。冗談を言ってはいつも僕たちを笑わせた。お泊りをした時には、笑える映画を見て、公園にも連れて行ってくれた。最高のおばあちゃんだったよ。大好きだよ。)

嬉しくて、若い頃の写真のように笑うジュディーが見えるようです

By 池澤ショーエンバウム直美


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6月23日(土): やっと対面レイニアチェリー
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 12:05| Comment(0) | 家族

2012年06月18日

屈託のないアメリカの父の日

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日本はもうとっくに新しい週が始まった時間でも、13時間遅れのここはまだまだ日曜日。
そしてちょっと特別な日曜日、「父の日」です。

14日のワシントンポストの全面を使って、こんなメッセージ広告が載りました。

This Father’s Day get it off your phone and into his hands.

父の日は携帯電話ではなく子どもの手を握ろう、というメッセージです。そして何だかノスタルジーにかられるような父と子の写真がたくさん掲載されています。広告主がヒューレット・パッカードというのも何やら面白いところです(笑)。

アメリカでは1週間前ぐらいからあちこちで「父の日」の文字が目に付くようになりました。新聞を広げれば、毎日必ず「Father’s Day Sale」です。父親へのギフトアイテムに乗じて、ちゃっかり全く対象外の物までセール品になっています。

そんな「父の日」って、いったいどこからどうして始まったのかしら、と調べたら、なるほど、こんなことでした。本家本元はやっぱりアメリカだったのです。

「1909年にアメリカ、ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッドが、彼女を男手ひとつで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。」

「最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われた。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、『母の日のように父に感謝する日を』と牧師教会へ嘆願して始まった。」

「1916年、アメリカ合衆国第28代大統領ウィルソンは、スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、これにより父の日が認知されるようになる。1966年、第36代大統領ジョンソンは、父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第三日曜日を父の日に定めた。1972年、アメリカでは正式に国の記念日に制定された。」 (以上「ウィキペディア」より)

知りませんでした。ちなみに母の日が言わずとしれたカーネーションなのに対し、父の日はバラだそうです。

面白いのは、アメリカでも日本でも6月第三日曜日の「父の日」が、国によってばらばらであることでした。1月のセルビアから12月のタイ、ブルガリアまで、毎月どこかの国で必ず「父の日」があります。けれども、一番多いのはやはり6月の第三日曜日で27カ国でしたけれど。

子どものいない人はいても、父と母がいない人はいません。たとえずっと昔に亡くなっていようが、たとえ確執を抱えていようが、たとえ悪い思い出ばかりだろうが、誰にでも父がいて母がいます。数ある記念日の中でもこの二つは実に公平な記念日です。

私も今日はたくさん父との思い出をなぞりました。心の中で何度も「お父さん!」と呼びかけ、「ね、お父さん、これってどう思う?」とか、「ね、お父さん、、これで間違ってない?」などとたくさんの対話をしました。

私の父は53の若さで急逝しました。穏やかで、ただニコニコと笑っている父の姿が、一番父らしい姿です。子どもから見ても人が良すぎるのではないかと思えるぐらいに、自分のことはさしおいても、家族や他人を思う人でした。その落ち着いた低い声は、今でもくっきりと私の耳の中に残っています。

短い間でしたし、寡黙な人でしたが、多くのことを教えてくれました。私がいじめられて泣いていれば、「いじめた子はおまえよりもっと辛いかもしれないよ。」と言い、「憎むということは憎まれるより苦しいんだよ。君が同じことを返したら、それはどんどん繋がっていって、君はますます苦しくなる。」と、小さな私には難しいことを言いました。

「誰だって間違いをするもんさ、人間なんだから。知らず知らずのうちに人を傷つけてしまうこともある。それはそれで仕方がない。反省をして、二度と同じことをしないように心をしっかり持つこと。そして、故意に人を傷つけることだけは絶対にしないこと。」

お父さん、ありがとう!

ところで、くだんのワシントンポスト紙ですが、「携帯電話より子どもの手を」の裏は、同じく一面を全部使ってのスマートフォンの広告です。やっぱりアメリカのこの屈託のなさって面白い!
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By 池澤ショーエンバウム直美


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6月17日(日):ワカモレ実演
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 11:00| Comment(0) | 家族

2012年05月22日

ジュディーが残したハート

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昨日、義弟のジョンから、こんな件名のメールが、30のアドレスに宛てて届けられました。

Remembering Judy

それは、ファミリーツリーの一つの枝であるジョンの姉、ジュディーが亡くなったことを知らせるものでした。そして、それには、あるプレゼントが付いていました。

最後に、書かれていたジョンの言葉です。

During recent weeks and months, Judy shared many things with me including a brief (very brief) family history.
この何週間と何か月、ジュディと僕はたくさんのことを共有しました。そこには、短い家族の歴史も含まれていました。


添えられたリンクを開いてみれば、日々気力も体力も衰えていく7才年上の姉から、昨年11月にジョンが聞き、書き留めた家族の歴史が、ジュディーの言葉で書かれていました。

けれども、「What It Was Like」と題するそれには、悲しいかな、「A Work in Progress」という言葉が添えられているのです。「進行中」は、もう少しで4ページ目に入ろうという「未完成」の形で、私たち全員に届けられました。

ジュディーが生まれた家のこと、父と母のこと、兄弟姉妹のこと、ベルを鳴らしてやってきたアイスクリーム屋さんのこと、湖の劇場で見た漫画映画のこと、引っ越し、父の死、母の死、、、、、、

ジョンを初めて見た時の様子は、こんな言葉で語られています。

「弟のジョンが生まれて母が家に戻ってきました。その日、父は、漫画映画を見せようと私たちをレイクシアターに連れて行ってくれたのですが、家に帰ったら、母と生まれたばかりのジョンが、日の当たるサンルームにいました。土曜日のことでした。ジョンはぷくぷくと太って、ピンク色をして、母は胸に、ゴールドとブルーのハートの形をした小さなメダルを止めていました。それが、母親になったことを示す『Blessed Mother medal』でした。」

こうして、ジュディーの言葉は続いていきます。

ボストンに住むジョンは、シカゴにいる姉を何度も訪れ、姉から根気強く、誰も知らないたくさんの話を聞かせてもらっていたのでしょう。そしてジュディーは、記憶の海を航海し、酸素マスクを外しては、末っ子の弟を通して、できる限りたくさんのことを伝え残しておこうとしたのでしょう。

ジョンは、同時に、11枚の写真を皆に送りました。ジョンが生まれた年に、並んで立つジュディーと年子の姉ジニーの写真があります。そして絵を描くのが好きだったジュディーが、病床で描き続けた絵やイラストがあります。最後の絵は5月1日のものです。

ジュディーが撮った最後の写真は、ほの暗い室内できらりと輝く、カラフルなハートでした。残された家族たちは、様々なメッセージをそこから受けとっているのでしょう。

悲しい知らせは、いつも穏やかな笑みを浮かべているジョンらしく、こんな言葉でしめられて、家族たちに救いを残しています。

Anyway, I’m sure you will enjoy our family history and some drawings and photographs that she created.

By 池澤ショーエンバウム直美



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5月22日(火): アウトドアパーティーの下準備
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 10:33| Comment(0) | 家族

2012年04月25日

私たちのファミリーギャラリー

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最後にアップデートされたのは
4月の16日のこと
いつものように たくさんの宛名が連なって
件名は
Four new volumes in Gallery

私と同い年の 義弟のジョンは
病気で仕事を辞めてから
「ファミリーギャラリー」を作り始めた

この日のメールも こんな書き出し

There are about 80 new photos.
Some old time family, but also some more recent kids.
The updated guide is attached.

新しい写真が80枚
昔の家族と、最近の子供たち
ガイドも新しくしておいたよ。

「ガイド」とは、一枚一枚の写真の説明
不明なまま 空白のものもあるけれど
今現在 A4で26ページ
18のフォルダーに分類されて
写真の数は373枚

一番古いのは1897年だし
新しいのは2012年
桜咲くタイダルベイスンで
ドリーが撮った私と
私が撮ったドリーの写真

「Our Japanese Family」
というフォルダーを開けば 
娘たちも 息子も 孫もいる

V500f17のフォルダーでは
7歳の夫が はにかんだように笑っているし
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つい先月 一緒にお花見をしたドリーが2歳に戻って
今まさに こちらに近づいてくる
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1949年5月8日の母の日には
夫と妹たちが
ママと並んでいる
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ワシントンを発つ前に
ボストンのジョンに電話をしたら
ジョンがこんなことを言った。

「まだまだスキャンをしなけりゃならない写真が 何百枚もあるけれど、
まあ、こつこつやっていくさ。誰かがどこかでやらなくてはいけないだろう?
ぼくらの子供たちと、そのまた子供たちのためにもね。

家族っていうのは、たとえ血がつながっていなくたって
縦にも、横にも、斜めにも広がって
みんな家族になるんだよ。嬉しいことだね。
そんなことがわかってきたよ。」

By 池澤ショーエンバウム直美



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4月25日(水):でこぽんさん 海を渡ればお相撲さん
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 09:36| Comment(0) | 家族

2011年12月30日

おうちに帰ろう

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 年の瀬から新しい年に向かうこの時期の、この感覚は、やはりとても特別なものです。それは、節分や雛祭り、お花見、端午の節句、お盆やお月見など、この美しい四季の国に生まれた私たちが伝承してきたどれよりも、濃密な「家族の思い出」を宿しているように
思えます。

 もう何十年もたったいうのに、私はまだ少女時代のこの時期に戻ることができます。板張りの台所に並んで立つ割烹着の祖母と母の後姿を思い出すことができます。父は女たちの手の届かない所を掃除し、つき立てのお餅が届けば、その長四角の白い板のような餅を新聞紙の上に載せて、細心の注意を払って同じ大きさに切っていきます。几帳面だった父は、大工道具の箱から90度に折れた「差金」を出してきては、しるしをつけてから包丁を入れるのが常でした。父の真剣な顔は、今でもはっきりと描くことができます。そして、そんな父の手元をドキドキしながら見つめる私と妹の姿すら、まるで昨日のことのように思い出すことができます。

 おおかたの家庭がそうであったように、我が家もまた、正月は家族がたくさんの時間を一緒に過ごす特別な時であり、その前の数日は、その特別な時のために家族全員が心をひとつにして働く時でした。そんな協働作業を父母も祖母も私たちも、まるでお祭のように楽しんでいました。本当のお祭りはその後に来るのにもかかわらず。

 祖母が亡くなり、私たち姉妹も成長し、元旦だろうが店も開くようになり、年の瀬の高揚感は幾分薄れはしても、お正月はやはり家族が集まる場でした。

 それは結婚し、子供ができても同じでした。たとえ困難な中にいても、お正月はやはり家族が集まる場であり続けました。父が亡くなり、母が亡くなり、人数も編成も変わりましたが、今もまだ、家族が集う場であることに変わりはありません。

 つい先日の新聞の何気ない記事に、胸の中がじ〜んと熱くなって涙がこぼれそうになったのも、そんな背景があったからでしょう。

 震災で自宅が流され、気仙沼の仮設住宅で暮らす高校生の国淋さんと、その家族の話です。国淋さんの母、明紅さんは中国人。南三陸町の水産加工工場に出稼ぎに来ていました。そこで町職員だった17歳年上の日本人男性、康一さんと結婚したのを機に、国淋さんも13歳の時に初めて日本の土を踏みました。言葉の問題もあって、義理の父親との間には距離がありました。

 ここからは、新聞記事のままに書かせていただきます。

 3月11日は気仙沼近くのカラオケボックスにいた。防災無線に追われるように高台にある高校に逃げ、たき火に当たりながら校庭で夜を明かした。母は日本語が不得手で、康一さんはがんを患っている。離れてしまった両親のことが心配で眠れなかった。

 3日目の朝、康一さんが知人に借りた軽トラックで高校に迎えに来たとき、国淋さんは「お父ちゃん」と思わず叫んで飛び出した。泣き出しそうな娘に、康一さんは言った。
「おうちに帰ろう」

 国淋さんは、その言葉の意味がうまく理解できなかった。海沿いの自宅は津波で流されちゃったんでしょう?おうちなんて、もうないじゃない。

 康一さんは繰り返した。
「おうちに帰ろう」
 
 2人が軽トラックで向かったのは、明紅さんが待っている知人の家だった。国淋さんは、そのときの気持ちを私に話してくれた。

「日本語で『おうち』って、建物じゃないんだ、家族が待っている場所なんだ、って初めて知ったんですよ」
 

 お正月は「おうち」。
 家族が待っている場所。
 家族を待つ場所。
 心の中だって「おうち」になる。
 おばあちゃんだって、おかあさんだって、おとうさんだって、またみんな一緒。

 すぐそこまで来ているそんな特別な時のために、今日、玄関に飾りをつけました。
 そして花を植えました。

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今週のグローバルキッチン http://blog.goo.ne.jp/naomiwakuwaku 
12月26日(月):我が家の今年の持ち寄りクリスマス
12月28日(水):遅れた報告〜我が家の持ち寄りクリスマス
12月29日(木):みんなで飾ったスペシャルなクリスマスケーキ
12月30日(金)予定:ビルボード東京のクリスマスプレート
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2011年12月05日

最悪!などと思わなければ

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 40時間近くPCを触ることもなく、メールを見ることもせず過ごした勇断の週末でした。その分、まさかの体験をたくさんし、いつもとは違う部分の頭を使いました。それは、まるでホカホカとお日様に乾したお布団のような時間でした。

 高速を走る間、降り続いていた大雨は、うまい具合にサファリパークに着く頃にはほとんど傘も要らないほどになりました。ここに来たのは、娘たちがまだ小さな子どもの頃でしたから、いったい何十年ぶりになるでしょう。あの時は大人2人に子ども2人だったのが、昨日は大人5人に子ども1人です。形も数も違えど、どちらも「家族」に変わりはありません。

 沼津港から運ばれた鮮魚をたっぷりと食べて、温泉にゆっくりとつかって眠りに就いた翌朝は、前日の天気が嘘のように、雲ひとつない青空となりました。部屋の大きな窓いっぱいに富士山が映ります。

 予定外の富士スピードウェイも、予定通りの遊園地「グリンパ」も初めての場所でした。まさか自分が大きな富士山を背景に観覧車やメリーゴーラウンドに乗るなんて、乗り物好きの小さな少年がいなければ、おそらく起こりもしないことだったでしょう。

 渋滞にかかる時間を避けて、御殿場のアウトレットで時間をつぶした大人5人と子ども1人が、「そろそろいいかな」とばかりに、2台の車に分乗して帰路に着こうとしていたまさにその時、とんでもないニュースが飛び込んできました。

 東名高速上り線の大井松田ICと厚木ICの間が通行止めになっているというのです。聞いてみれば、バイクや観光バスなど3台が巻き込まれる事故が午後2時半頃に起きたとのこと。けれども時はすでにして夕方6時を過ぎる頃。よほどの大事故だったのでしょうか。仕方なくしばらく様子を見ていましたが、長引く事故処理の目処もたたずあきらめて、大渋滞が予想される246に下りる代わりに、箱根の山越えで小田原に下りてから東名に乗るルートを選びました。何とか帰り着いたのは、それからかなり時間がたった後。

 予定が大幅に狂いました。帰ってからするつもりだったことのまだ半分も仕上がってはいません。頭の半分が「どうしよう」と焦るのに、もう片方の半分がこう言います。

「無事に帰れて良かったじゃない? もし高速に乗ってしまっていたら、それこそにっちもさっちも行かなかったでしょう? それ以前に、事故に巻き込まれずにすんだことをありがたいと思うべきじゃない?」

 さらには追い討ちをかけるようにこんな決定打を打ちます。

「良かったじゃないの。それだけ長く大好きな家族たちと一緒にいられたんだから。やらなきゃいけないことなんて、きっと何とかなるわよ。いよいよとなったらあきらめればいいだけの話。全然、最悪の事態じゃないわ。」

 これらの囁きに、「そうだ、そうだ!」と同感していたら、今度は、ボローニャからミラノに入ったばかりの夫から電話がかかってきました。そして、書きかけたこのブログの前半を中断したまま1時間、予期せぬ事態の解決策を延々と話し合う羽目になりました。

 困ったことになりました。イタリアはいったいどうなってしまったのでしょう。このアクシデントについては、また明日、お話しさせていただきますけれど、これでまた、私の明日はますますテンヤワンヤになりそうです。

 それでも夫に言いました。

「No problem! Don’t worry. It’s not the worst case.」
 大丈夫、全然、最悪の事態じゃないわ。

「最悪!」などと思わなければ、きっと何とかなるものです。
そう願って、、、

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2011年11月22日

世代を超えて伝わっていくもの

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「虫取りや川遊びといった自然体験が豊かな親がいるほど、子どもの自立心は高い」

 これは、先日、国立青少年教育振興機構が発表した調査結果です。
「自然と触れ合うことによる好影響が、世代を超えて伝わっていくことが初めて示された」とのこと。

 具体的な説明によれば、中学生までに海や川で泳いだり、夜空の星を見たり、昆虫をつかまえるなどの体験をたくさんした人たちの子どもの63%は、同じ体験を何度もしているそうですし、もっといいことには、そうした自然体験の豊かな子どもほど、自立的行動習慣を身に付けているそうなのです。

 体育の通信簿はいつも「3」。これでもたぶん相当のおまけ(笑)。
 そんな私でも、海も川も星も昆虫も大好きでした。「男の子らしく」という意味も、「女の子らしく」という意味もよくわかりませんでしたし、もしわかっていたとしても、全然気になんかしなかったことでしょう。父も母もその点ではなかなかリベラルな人でした。

 そうしたDNAは確実に娘たちに引き継がれました。加えて言えば、彼女らの父親は私に輪をかけての冒険家であり、私と違って自然科学にも通じた人でしたから、娘たちの「自然体験」はかなり豊かで、かなりユニークなものとなりました。うっかり机の引き出しをあけようものなら、ペットのイモリが飛び出してくることなどは日常茶飯事でした。小さな娘たちを連れて、家族4人で、ポンペイ島からコスラエ島まで、何日も何日も貨物船に乗って航海をしたこともあります。昼は大海原に糸を垂れ、荷物を下ろす小さな島々で身体を洗う水を借り、夜は豚や鶏と一緒に満点の星を見ながら甲板で眠りました。島に着けば着いたで、マングローブの中の水路を、小さなボートで進みました。

 大人になった娘たちは、時にポツリと思い出の断片を語ることはあっても、そんな体験がどのような形で心に留まっているのかを知ることはできません。

 先にあげた教育振興機構の調査を読んで、そんなことをつらつら考えていたら、「ちょっとコタキナバルに行ってくる。」と言う連絡が娘からはいりました。「どうしてそんな所に小さな息子と二人で?」と、自らの昔の日々をすっかり忘れてうろたえる私に、娘が平然と言います。

「XXにジャングルでカブトムシを見せたいから。カヤックに乗ってマングローブの林の中で蛍を一緒に見たいから。星をたくさん見せたいから、、、、、」。こんな具合にまだまだ続きます。ふと気づけば、まるで昔の私です。

 1週間の自然体験から帰ってきた小さな少年は、グランマの欲目でしょうか、一まわりしっかりと、2本の足で堂々と大地を踏みしめているようにすら見えます。

 この調査に関わった千葉大学の明石要一先生の言葉は、子育て中のお父さん、お母さんにはぜひ心に留めていただきたい言葉です。

「子どもに自立的な行動習慣を身につけさせるためには、厳しいしつけより、親子で自然体験をした方が漢方薬のようにじわじわ効くはずだ。」

 日一日と秋が深まり、私の町の銀杏並木が美しく染められ、色づいた落ち葉が足元の地面を覆うようになりました。もうすぐ12月。ちょっと早いのですが、大きなカブトムシを掴めるようになって、暗闇も怖くなくなった少年は、今夜、クリスマスオーナメントに灯をともしました。

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11月22日(火):ホワイトハウスの殺風景チキンパテ
11月23日(水)予定:一工夫の殺風景チキンパテ
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2011年10月17日

一列になって走る自転車

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 昨日の日曜日、東京は気温も上がって、夏が再び戻ってきたかのような日和となりました。それでも、風はやはり秋です。

 一箇所で落ち着いて暮らすことができないのなら、あきらめるものは潔くあきらめて、手放すものは潔く手放して、本当に大切なものだけを心の中にとどめて、どこに行こうが、どこで暮らそうが、愚痴は言うまい。そうすればどこでだって自分らしく生きることができるはず、と「ポータブルライフ」を目ざしてはきました。とは言え、それはなかなか難しく、後ろ髪を引かれることが、まだまだたくさんあります。私の煩悩とも言えるでしょうか。

 その最たるものが、日本の家族と過ごす時間です。こればかりは日本にいなくては無理です。そして、エッフェル塔には上っても、いつでも登れる東京タワーにはまだ上ったことがない、などというのにも似て、そんな私の家族時間渇望度は年々アップ気味です。そして、それを知っている家族たちも、何かと言えば一緒に過ごす時間を企画します。

 帰国後第一弾は代々木公園ピクニック。

 よく晴れた青空の下、広い公園の中では、たくさんの人がいろいろなことをしています。私たちのように大きなマットを敷いてお弁当を広げている人もたくさん。その向こうには、どうやら友人に囲まれて結婚式をしているらしい国際結婚カップルの姿。芝生で一人ひたすら読書をしている人もいれば、伸びやかに昼寝をしている人。林の中ではトランペットの練習をしている人も、劇のリハーサルや撮影会をしているグループも。

 運動会も見つけました。保育園の子どもたちでしょうか。ヨチヨチ歩きの亀さんから、早足のウサギさんまで、年齢も違う子供たちが一緒になって、「よーい、ドン」と、紐で下がったパンを目ざして走ります。ちょっとレトロなパン食い競争の場面です。

 ここには、犬を連れた人たちもたくさん。
 いろいろな国の人たちもたくさん。
 それがとても心地良いのは、公園というキャノピー(天蓋のついた場所)に居るからでしょうか。それともお天気が良いからでしょうか。

 久しぶりでボール遊びに興じました。
 小さな少年とけっこう真剣に遊びました。

 2年半ぶりに自転車に乗りました。
 4台の自転車が同じ道を一列に並んで走るサイクリングロードの、なんと言う喜び。
 そのうちすぐに4台は5台になるでしょうし、5台が6台にも7台にも8台にもなることだってあるでしょう。

 余韻の中をフワフワと漂いながら、これではいけないと気合を入れて心機一転、月曜日の朝までに送ることを約束した原稿に必死に取りかかり始め、気づけばすでに約束の朝です。

 それでも、あんなに屈託のない時間をもらったのですから、このくらいの労働は当然です。などと言いながら、これからはもっともっと、母であり、グランマであり、そして妻でいたいかな、などと、わが晩年のワークアンドライフバランスを、一列になって走る自転車を思い浮かべながら、これまたけっこう真剣に考えている寝不足の月曜日です。
By 池澤ショーエンバウム直美

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10月16日(日):軍配はナポリタンにあり
10月17日(月):日曜日のピクニックランチ
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2011年10月11日

交叉した長い道

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 9月最後の木曜日、私たちは滞在していたインディアナ州ブルーミントンから46号線を北西へと走り、Terre Haute(テレホーテ)という小さな町を目指しました。湖のそばを走り、煙突からモクモクと煙が噴き出すトラックを追い越して、単線の線路を渡り、川を越えて、2時間後に到着した目的地は、町から離れ、木々に囲まれる静謐なキャンパスでした。

 「Saint Mary-of-the Woods College」、通称「The Woods」と呼ばれるそのカレッジは、1840年にフランスのカトリックの修道女によって創立された非営利のリベラル・アーツカレッジです。ここで約350人の女子学生が学んでいます。最近では通信教育で男性も受け容れるようになりましたが、キャンパス自体はまだ緑と光に溢れ、信仰に守られた女の園です。とは言え、なかなかユニークな25の専攻科目が用意されています。「Equine Studies」などと言う「馬」を学ぶ学科もあり、広い敷地内には、馬やアルパカが飼われています。農業を学ぶためのオーガニックガーデンもありますし、6エーカーのサッカー場もあります。

 大きなバギーに何人も乗った子どもたちが、先生に押されて日溜りの中を通り過ぎていきます。その時だけは、静かなキャンパスが少しばかり賑やかになります。ここには、子どもを持つ学生たちのための保育所も併設されているのです。手入れの行き届いた木々の間には、白いマリア像が立っています。

 ここで50年もの間教鞭を取っているのが、シスター・エレンです。エレンは修道女であり、博士号を持ち数学を教える教授です。72歳になった今でも現役で教えています。そしてエレンは、夫の小学校時代のクラスメートでした。1年生から8年生までの8年間もの間、机を並べた仲です。その後、二人はそれぞれの道に分かれました。そして、アカデミアという同じ世界の道なのに、2つの道は交叉をすることもなく年月が過ぎました。

 肩を並べて歩くのは実に50年ぶりだと言います。私はそんな二人の邪魔にならないように後ろを歩きます。私たちは美しいカフェテリアで食事をし、エレンの案内でカレッジの内外を見てまわりました。まさにここは守られたサンクチュアリです。

 名残惜しく別れを告げるエレンに、最後に思い切って聞きました。

「シスター・エレン、一つだけ質問してもいいでしょうか。これは貴女にしか答えられないことなんです。トムはどんな少年だったのでしょうか?」

 すると大きな優しい笑みを浮かべたエレンが、ちょっとだけ遠くの方を見るような眼差しをした後で、答えました。

「He was a gentle smart boy. Then he becomes a gentleman.」

 私はその短い答を、エレンの言葉のままで受け止めて、そのまま心の中にしまいました。へたに日本語に置き換えたら、それはエレンの言葉でなくなってしまうような気がしたのです。

 50年間ずっと一つの町の一つのカレッジで教え続けてきたエレンは、今日もまたインディアナ州テレホーテの小さなカレッジで教えています。
 かたや9カ国に住み、35の国で仕事をしてきたトムは、今日はハンブルグの大きな大学院で教えています。

 次に2つの道が交叉するのはいつになるのでしょうか。
 2011年9月29日、何十年ぶりかに交叉した二つの道の証人としてその場に居合わせたことを、今日ここにいる私は、嬉しく、そしてありがたく思っています。

                             By 池澤ショーエンバウム直美

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10月10日(月): 秋にはやっぱりアップルクリスプ
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 12:47| Comment(0) | 家族

2011年01月16日

寒さつれづれ

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 それにしても寒くありません?
 今朝なんて氷が張っているのを見つけちゃいました。

 昨日はゆっくり温泉につかって、今日だって午前中いっぱい水着を着てバーデゾーンでぬくぬく温まっていたというのに、帰ってきて暖房の入っていない部屋に一歩入れば、もうブルブルと震え始めます。

 冷気の中でも、みんなで歩く早朝の林の小道は笑い声が絶えず、
山茶花や水仙の花にもつい足を留め、
空は澄み渡り、光は明るく、海は輝き、、、、、

 大人数から再び少人数になって、共通の時を過ごした人たちが、またそれぞれの生活に戻っていきました。賑わいの後の静けさが、やけに深深と身に染みます。
 
 PCを持たずに出かけて本当に良かったと思っています。大切な人たちと過ごす時間は、たとえ外には繋がっていなくとも、十分に満たされていましたから。

 1人でも楽しい、2人でも楽しい、3人でも4人でも5人でも、もっと大勢でも、、、、、、
そんな風に生きていきたいと思います。それにはたぶん自立していながら、適度に依存し、受け容れ、協調する力が必要ですね。

 ところで話は変わりますが、先週末、偶然にも素晴らしい陶磁器展に巡りあいました。気づけば明日が最終日。銀座三越の8階で開催されている「陶磁物語〜葉山有樹展」です。

「この星は生命の星 無意味な生命などありはしない。」

 キツネがいて、熊がいて、豹も蛇も鹿も兎も山猫も、
 馬がいて、鶏がいて、リスもトンボも蜂もフクロウも、
 龍や鳳凰だって見つかりました。

「森羅万象図」という名の、いつまで見ても見飽きぬ壷でした。
 場内の写真撮影は禁止されていましたので、これは地下鉄コンコースで見つけた別の作品の写真です。これもまた息を呑むほど美しいものでした。
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1月17日(月)予告:わんこそば?はい、犬子(ワンコ)そば

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2011年01月15日

勇断は正解!

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 あと10分でお迎えの車が来ます。荷物もまとまりました。いえ、家出ではありません(笑)。
海のそばの室内プール付き温泉に行ってきます。メゾネットコテージ2棟の大所帯です。最後の最後まで迷いましたが、PCを置いていくことにしました。私にしては勇断かも、、、

 昨夜から現地入りした先発隊から、こんな朝日の写真が届きました。
 どうやら勇断は正解!
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1月14日(金)素敵なレトロ〜日本の洋食屋さん
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 10:27| Comment(0) | 家族

2011年01月01日

61回目のお正月

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 生まれて最初のお正月には、やっと這い這いを始めたばかりの私のまわりには、若い父がいて、それよりもっと若い母がいて、祖母がいたはずでした。それから数年、そこに妹が加わって、お正月のテーブルを囲むのは5人になりました。

 祖母が欠け4人になり、結婚をしてからは2人の食卓になりました。父母や妹が加わることもありました。長女が生まれ一人増え、次女が生まれ、またもう一人増えました。そして父が逝き、せっかく増えた家族の食卓は、また一人減りました。

 その後、最愛の人と別れてまた一人減った寂しいお正月の朝は、しばらくたって、一人また一人と増え始めました。

 そして2011年最初の日の今日は、この家に8名の大切な人たちが集い、最初の食事をしました。新年の祝杯をあげる前に、アメリカの夫に電話をし、一人ずつ、全員で「おめでとう!」を言いました。最年少のメンバーは、「もちもち、グランパ?あけまちておめでと。」だけでしたけれど、それでも私たちは十分に幸せな笑顔に満たされました。

 いっそ朝が来なければいい、と泣きながら眠りに就いた時もありました。どうしてよいかわからずに途方に暮れた時もありました。けれども、それら全ての悲しみ、苦しみを乗り越えられたのは、たぶん、こんなお正月が来ることをどこかで信じていたからかもしれません。

 明るい太陽の光が差し込む部屋で、カメラを首から提げたおしゃまな少年が、モップを持って掃除をし、そのまわりをクーが歩きまわる、、、、「クーちゃん、おいで」「クーちゃん、だめ!」そんな会話が私たちの笑いを誘う、、、、そんな幸せなお正月が来ることを、きっとわかっていたからかもしれません。台所では、すっかり成長した娘たちが並んでおせちの最後の仕上げをします。
そんな途中で、別れた人の嬉しいニュースが届きました。賑わいと華やぎと、優しさに溢れた、いいお正月でした。

 今また私は、静けさが戻った夜に、クーを膝に乗せて、昼間の残りのシャンパンを飲み、お気に入りの音楽を聞き、大切いな人たちのことを思いながら、これを書いています。

 一人また一人、守りたい人が増えていくにつれて、心配の数も増えていきます。守りたい人がどれだけいるか、それが愛の広さです。

 明日は、この8人にまたさらに2人が加わって、拡大家族が総出で初詣に行き、合宿をします。
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12月31日(金):ミラノ風リゾットって?
1月4日(火)予告:我が家の変形おせち
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2010年12月15日

お誕生日の娘に

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 昨夜の「スカラ座の夜」報告を先延ばしにするほどに、今日は特別な日です。毎年やってくるこの日は、1年のうちで一番特別な日の1つですし、ここまで歩んできた長い人生の中でもとりわけ、あの年の12月15日という日は、思い返すたびに心が熱くなる日です。

 1975年、ここから一ッ飛びのアテネの冬は、もう少し暖かく、もう少し陽射しに満ちていました。身重のからだで南周りの飛行機に乗ってアテネに移住してから半年、日常会話も何とかできるようになった頃に、小さなベビーが元気な産声をあげました。朦朧としていた私の頬を誰かがポンポンと叩いて、「コリツァーキ、コリツァーキ!」(女の子だよ!)と言ったのを覚えています。遠い異国で初めて経験する痛みに必死に耐えていた私の両の目から、その時初めて、止め処もなく涙が溢れ出しました。

 以来私は、小さなベビーが成長するのと一緒に、たくさんの涙、たくさんの笑い、たくさんの幸せを与えられ、心配をし続けながら、母として人間として成長してきました。私の母が、混沌とした忘却の海の中で、たまさか正気に戻った時に、最後の最後まで私を思い心配していたように、母というものはいつだってそんなもんです。心身ともに自分よりもずっとたくましくなった子を、オロオロと心配するのです。そんな心配を口にしては、「何を言ってるの。」と笑われながらも、どこにいても心配をし続けているのです。

 先月、いっとき東京に戻った折に娘に会いました。たまたま手にした運勢暦で、娘の生まれ年が来年は「厄年」であることを知り、諸々の厄から身を守るためには厄払いが必要だという言葉にまたもやオロオロと心配をし、娘に告げると、彼女は花のように笑った後で、こんなことを言いました。

 「ママ、厄払いなんかしちゃったら『役』が来なくなっちゃうじゃない。厄年は役年、来年はきっといい年になるよ。心配しないで。」

 こうして今では、おおよその心配は、本人自身に軽くいなされるようにまでなりました。私自身についての心配だって、相談さえすれば、だいたいは的確な答が返ってきます。

 ところで、厄年の話に連なって思い出すのは、19世紀末のイギリスの作家、オスカー・ワイルドの「Lord Arthur Savile’s Crime」という小説です。邦題は確か「アーサー卿の犯罪」だったかと思います。

 アーサー卿がある時、手相占い師のところに行き、来るべき年月を予見してもらいました。占い師から言われたことは、「将来殺人を犯すことになる。」というものでした。以来彼は、その言葉が頭から離れなくなり、殺人を犯すまでは自由になれない、と考えるようになり、自由になるために殺人に手を染めるようになりました。ワイルドらしい頽廃と逆説に満ちた、実にユニークな小説です。
 
 起きるかもしれない、けれども起きないかもしれない。
 なるかもしれない、けれどもならないかもしれない。

 それらが不安や心配をかき立てるものであるならば、過剰な心配をしすぎない事です。厄年だって気にしない、いい役がまわってくるのだからぐらいに考えて、アーサー卿のように心の自由を縛られないことです。

まだまだ達観できない未熟な私ですけれど、今日お誕生日を迎えた娘に教えられたことのひとつです。

 おめでとう!いつまでもママはあなたのママです。
 もう大丈夫とわかってはいても、やっぱりまだまだたくさん心配しているママです。
 きっと90歳になったって、65歳のあなたのことをオロオロ心配しているかもしれません。
 いつだって、どこでだって、あなたの幸せを祈っています。
 生まれてきてくれてありがとう。あなたのママで嬉しいよ。
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12月15日(水):ミラノでドネルカバブ
12月16日(木)予告:赤と白のムール貝

 
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2010年11月23日

私は強いから

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 さて昨夜の続きです。痛みの中で私が何を思い、何を祈っていたでしょうか。

 きちんとした信仰を持っているわけではありませんから、祈ると言ったって、およそ節操もなく、亡くなった父母、祖父母、道端のお地蔵様から、ポナペ島の神様、太陽、月、風、草木、何にでも語りかけてしまいます(笑)。

 異国の地で予期せぬ帯状疱疹にかかり、日々の痛みの中で私がひたすら祈っていたのは、わが身の楽ではなく、むしろその逆でした。折しも、東京の娘たちが、ギックリ腰になったり、原因不明の腹痛に苦しんだり、私たちの宝物のクーが、足にできた腫瘍を取るための手術をすることになったりと、いっぺんに色々なことが重なりました。それは自分のこと以上に辛い心配と不安でした。

 毎朝、私は部屋の窓を開けて、ミラノの空に向かって手を合わせては、私のたくさんの神様たちにお願いをしていたのです。

「どうか娘たちの痛みと、クーの痛みを私にください。私は強いから耐えられます。
 強い私に彼らの痛みをください。」

 その祈りが聞きとげられたのかどうかはわかりませんが、ありがたいことに、娘たちは大事に至らずに回復し、クーの手術も成功しました。私の痛みばかりはちっともおさまってはくれませんでしたけれど、私には耐える力がありました。それに、それが神様たちからのプレゼントだと思えば、私は本当にありがたかったのです。

 先週半ばにクーは抜糸を終えました。
「入院をしたり手術をしたりすると、しばらくは疑い深くなったり、沈み込んだりしてしまう子が多いのに、この子は相変わらず明るいですねえ、大したもんです。」と、ドクターにほめられるぐらいに、あっけらかんと元気にしています。

 そりゃそうです。私の血を引いていますから(笑)。
 クーですか? 病院の診察室で、娘が作った砂肝ジャーキーをじっと見つめている、写真の子です。

 愛することには、理屈も論理もありません。大切な人たちが苦しむのを見るよりは、自分自身が苦しむほうがよっぽど気楽です。それに、心配や不安や痛みが何倍にも増えたって、やっぱり愛する人たちがたくさんいる方が幸せです。
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11月24日(水)予定:ピンチモニオという野菜の園
posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 23:58| Comment(0) | 家族

2009年05月22日

結婚式〜家族の輪が広がって

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 300のプルメリアの花が散りばめられたガゼボへと続くヴァージンロードを、花嫁が父親と腕を組んで歩き始めるのを待っていたかのように、太陽の輝きが増し、海が光の中で揺れ、風はより優しく吹き始めました。私のスカートをつかんで世の中を恐々とのぞき見ていた小さな娘が、私よりもずっと大きくなり、まっすぐ前を向いて毅然として一歩ずつ歩いて行く姿は、私の目には世界で一番美しい花嫁に見えました。

 今日この日に満一歳のお誕生日を迎えた花嫁と花婿の息子は、小さなアロハを着込み、首にレイをかけてパパとママの結婚式を見守りました。それぞれの家族だけのごく内輪の祝福の集まりは、娘が長い間計画を立てていたものでした。そして、現地との間で何度もメールのやり取りをして、花の色、数、テーブルディスプレーに至るまでを彼女なりにこだわった120%オリジナルなものとなりました。式の間は、波音とハープの生演奏がデュオを奏で、開け放たれたダイニングルームでの食事の席では、弾き手と歌い手、踊り手が私たちの宴を盛り立てました。

 堅苦しい挨拶も祝辞もない結婚式でしたが、最後に花婿と花嫁が家族に向けての感謝の言葉を述べました。あらためて娘の気持を知ったのは、花婿のこんな言葉からでした。

 「結婚式をやりたいと言い出した時、正直、僕は、そんなのは形ばかりの自己満足だと思いました。でも、彼女が、『母に私の花嫁姿を見せたい』と言った時に考えを変えました。今日この日に、こうして大切な家族に集まってもらってこんなに素晴らしい機会を持てたことを本当に嬉しく思います。」

 そして、娘が、 「私の2人の母と3人への父へ」 と語りかけた言葉に、心打たれた私のパートナーがすっくと立ち上がって、 「私をこうして家族の輪に迎え入れてくれて本当にありがとうございます。」 と番外編の挨拶をした時に、私はもう涙をこらえることができませんでした。

 そして、ここまで頑張って生きてきて本当に良かったと思ったのは、別れた今でも心から尊敬する花嫁の父と、同じように心から敬愛する今の私のパートナーが、古くからの知己のように親しく語り合う姿を見た時でした。そして、愛する娘の門出の時に、父親と母親、姉という3人が再び 「家族」 として並び、私たちの大切な花嫁を祝福できたことでした。

 こうして家族の輪がどんどんと広がっていきます。何と嬉しくありがたいことでしょうか。

 
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