2012年09月28日

キャディラック山頂から京王線の車内へと

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「1916年、ウィルソン大統領の時代、メイン州の南、マウントデサート島に作られた国立公園『Acadia National Park』は、6千エーカー(24.28平方キロ)から始まりました。その後、このたぐいまれな自然の宝庫を愛する裕福な篤志家たちの金銭的支援によって、今では当時の8倍以上の広さ、数字にして4万9千エーカー(198.3平方キロ)です。支え守ってきた人たちの歴史の中には、ロックフェラー家やカーネギー家、ヴァンダービルト家など、アメリカ史上の富豪と呼ばれる名が見られます。」

これは、9月7日に書いたブログの書き出しの言葉。
あの日、私たちは、アーカディア国立公園に14あるうちの2つのトレールを歩きました。もちろん初心者コースです。

あれからもう3週間もたつなんて、と書きかけて、ふと気づけば、実はまだ3週間しかたっていないことに驚きます。あの別世界のような日々は、ずっと遠くに行ってしまったような気がします。

毎年200万人以上が訪れるだけあって、この国立公園は実によくできていました。麓から全長約27マイル(43キロ)のループロードをたどれば、鬱蒼たる森林や、轟音と共に波が岩に砕け散る「Thunder Hole」や、砂浜がどこまでも続く「Sand Beach」などのいくつもの見所を経て、この公園の一番高いキャディラック山(Cadillac Mountain)の頂きまで行くことができるのです。

「一番高い」と言っても、たかだか1530フィート(466メートル)ですが、よく晴れた日の360度のパノラマは圧巻です。朝日を見に来る人もいれば、夕日を見に来る人もいます。ひとりたたずむ人もいれば、大勢で眺めを楽しむ人たちもいます。

そんな中で、斜面に寝たまま、いつまでもいつまでも赤ちゃんと遊んでいる若いお母さんがいました。赤ちゃんを支えた二本の腕を空に向かって高く伸ばすと、キャキャッと赤ちゃんが笑います。するとお母さんは腕を折り曲げて、愛おしそうに赤ちゃんを胸の上で抱きしめます。そんなことをずっと繰り返しているのです。ベビーもママもとびっきりの笑顔です。いつまでも心に留めておきたい幸せな風景でした。

昨日、千歳烏山から乗った京王線の車中でよく似た光景に出会いました。小柄な若い母親が、幌をかぶったバギーの中の小さな赤ちゃんを、愛しくてたまらないと言った様子でずっとあやし続けているのです。時々、身をかがめて頬っぺたをくっつけたり、頭をなでたり、じっと目を見つめたり、、、、バギーの中のベビーの顔は見えませんが、お母さんは、目的地の上北沢の駅に着くまで、あのキャディラック山頂の母親と同じに、ずっと、とびっきりの笑顔でした。これもまた、心に留めておきたい幸せの絵でした。

きっと私も、娘たちにああして笑いかけ
きっと私の母も、私にああして笑いかけ
きっと私の祖母も、母にああして笑いかけ
きっと私の曾祖母も、祖母にああして笑いかけていたのでしょう。

そうした流れの中で、今ここに私たちがいます。

                              By 池澤ショーエンバウム直美

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9月27日(木):カナディアンノスタルジーのメニュー
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2012年09月22日

ユキヒョウの哀しみ ユキヒョウの幸せ

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17日の月曜日の新聞で、「ユキヒョウ母挟まれて死ぬ〜閉まる扉の向こうで子の鳴き声」という記事を読んで以来、ずっと心に、ずっしりと重い塊がひっかかっています。その塊の成分は、たぶん、やるせないせつなさと、どうすることもできない哀しみと、そしてある種の誇り。

ごぞんじのことと思いますが、14日の夕方に多摩動物園で、「マユ」が死にました。マユは絶滅を危惧されているユキヒョウの13歳のメスです。そして3匹の子供たちの母です。

いつも子供たちと一緒に暮らす母は、食事の時間だけは子供と離れ離れにされていたと言います。一緒にしておくと、マユが自分の食事をすべて子供たちに与えてしまって食べないからだそうです。

これだけだって、ジーンとするのに、今回はとんだ悲劇が起きました。子供たちの寝室から鳴き声が聞こえるや、母は自分の状況も顧みずに閉まりかかった扉に飛び込んだのです。その隙間はたった15センチ。マユはその15センチの隙間に挟まったまま亡くなりました。

擬人的に考え過ぎるのもよくありませんけれど、子供たちを心配する母の気持ちを、やっぱり思ってしまうのです。そして、最後まで気づかいながらも、子供たちに会うこともできずに死んでいったマユの心を思ってしまうのです。

昨日の朝刊の天声人語はこんな文章で始まっていました。

「東京の多摩動物公園でユキヒョウ(雪豹)の母が死んだという記事に、いささか感じるものがあった。3頭の子を去年産んで育てていた。エサの時間だけは、一緒にしておくとすべて子に与えて食べないため、部屋を分けていたそうだ▼その日も子を別の部屋に移した。油圧扉を閉めているときに子が鳴きだし、母豹は飛び込もうとして扉に挟まれたという。」

源実朝のこんな句が続きます。

「物いはぬ四方の獣すらだにもあはれなるかな親の子を思ふ」

人も動物も、たとえ男だろうが女だろうが、誰しもみな「母」のDNAを持って生まれてくるような気がします。なぜならみな「母」から生まれたからです。たとえ自らが母になることはなくとも、そのDNAはきちんと体の中にあるのです。だから、わが身を考えるよりも前に、本当に大切なもの、愛するものを守ろうとする「母」になってしまうのです。だから、時として、やるせなくて、せつなくて、どうすることもできないほどに哀しくて、それなのに身を投げ出してでも「誰かを守りたい自分」に誇りを覚えるのです。そして、そんな守りたい誰かがいることを幸せに思うのです。私もまた、一匹のユキヒョウです。

メイン州のアーカディア国立公園で出会った母鹿は、藪の中に小鹿を隠していました。
カナダの国境へと向かう霧の中で出会った父鹿は、通りを渡る機会をうかがいながら、時折振り返っては、小鹿の存在を確認していました。

ポトマック川のアヒルたちも
ワシントンの町なかのアヒルたちも
みんな子を守る親がいます。
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                               By 池澤ショーエンバウム直美
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9月21日(金):新宿B級グルメの夜
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2012年06月22日

母のいる場所が私の母国

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毎度定例のようになってしまったスーザンとの夕食会。今回もまずは彼女の家でおしゃべりをしてから、ご近所のレバノン料理のレストランに繰り出しました。

大学でもとりわけ面倒見の良いことで知られる人気教授のスーザンは、たいていは誰かを引き連れてきます。一番多いのは海外からロースクールに来ている若手の研究者たちですが、シンガポールの大学の学長夫妻だったり、日本の大学の先生だったり、地元アメリカのジャッジ(裁判官)だったりと、決して若いとは言えない人たちのこともあります(笑)。

この日のお仲間は、ロンドンから派遣されて、ワシントンの弁護士事務所で働くイシドラです。今日はちょっと彼女の事を。。。

天は二物を何とやら、と言いますけれど、彼女のような若い人を見るたびに、いったい天はいくつの物を与えているのだろうと思います。イシドラは外交官の両親のもと、セルビアで生まれ、小学校から高校までの教育をイタリアで受けました。大学と大学院はイギリスの名門、ケンブリッジです。そして卒業してからは、世界的なローファームのロンドン事務所で弁護士として働いています。

それだけでもなかなかないようなキャリアですのに、加えてはっと息を吞むような美人です。浅黒い肌に漆黒の髪、キラキラと輝く大きな黒い目は、まるでイタリア映画に出て来る情熱的な女優のよう。仕事帰りだというのに、途中で着替えてきたのでしょうか、胸の大きく開いた黒いドレスは、女性にとっても十分すぎるほどに魅惑的です。しかも、話の受け答えのマナーも、食事のマナーも満点です。それなのに、たかだか28歳。その年頃のわが身とは比べようもありません。こうして国境を越えて活躍する若き女性の姿を見ることは、なんとも頼もしく嬉しいことです。

そんな彼女に、ちょっとこんな質問をしてみました。

―母国語は?
―イタリア語とセルビア語です。

―自分にとってどこが母国だと思う?
―(ちょっと遠くを見るように考えた後で)どこであろうと、母のいる場所が私の母国です。

「母のいる場所が私の母国」、そんな言葉がイシドラの口から出たことにちょっと驚きながらも、華々しい教育や仕事のキャリアを持つこと以上に、そんな彼女が素敵に思え、共感を覚えました。

 親子以上に年の差がある私たちが、その後もメールを取り交わすようになったのは、たぶんそんな思いがきっかけとなってのことでしょう。

By 池澤ショーエンバウム直美


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6月21日(木): ワシントン夫人のレモネード
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2012年05月13日

母の日や 娘になりたし 母よりも

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母の日でした。

シャクヤク
トルコキキョウ
ビバーナム・スノーボール
セダム
カーネーション
グミ
レモンリーフ

これは上の娘から届いた、今年のアレンジメント。
例年、「ママが好きな色だから」と、ピンクや紫系の色合いでまとめられていたのに、今年は「お部屋に合いそうだから」と、白と緑になりました。
確かに、5月の部屋によく似合います。

下の娘からは、オーガニックのシャンプーとリンスのセットです。
早速使ってみたら、ふわりとフェンネルの香りに包まれて、ふわりとイタリアまで飛んで行きました。髪を洗うたびにふわりと幸せになりそうです。

ここに不思議なおまけがつきました。
これもまた例年の事なのですが、

Very happy mothers' day. You are the best mother as well as wife.

というメッセージカードです。母の日とは子供から祝ってもらうものだとばかり思っていた私は、初めのうちは、「えっ、私ってあなたのお母さん?」とばかりにかなり面食らいましたが、何年も繰り返されているうちに、さすがに慣れました。これもまた、バレンタインデイに双方向にプレゼントをし合う習慣と並んで、なかなか素敵なカルチャーギャップのひとつです(笑)。

しかも、今年の贈り物は随分と気が利いています。留守の間にうっそうと茂ってしまった雑草の庭を、花でいっぱいにしてくれたのです。「君が好きな紫陽花とジャスミンも植えておいたよ。」なんて、まあ、白と緑のアレンジメント、ふわりフェンネル、ふわりイタリアのシャンプー&リンス同様、泣かせるじゃありませんか。

と、いくら嬉しくても、もう私には花を贈る母もいなければ、シャンプーを贈る母もいません。ましてや母のためにせっせと庭仕事をすることなど、願っても願っても叶いません。
何十年もの間欠かさずに、たとえ日本にいない時だって、毎年毎年、5月の第二日曜日には感謝を形にして贈っていたのに、何にもできない母の日が今日で3回目となりました。

まだ悲しみの中にいた1年目の母の日にも
まだおどおどとして慣れずにいた2年目の母の日にも
そして、もう3年目になった今年の母の日にも、思います。

母であることは、ありがたく、幸せなこと。
でも、この日ばかりは娘になって、母に呼びかけることができたら、と。
あの頃のように、「今年はどんな花にしようかしら」「今年はどんなプレゼントにしようかしら」と迷うことができたら、と。

母の日や 娘になりたし 母よりも

お母さん!

By 池澤ショーエンバウム直美



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5月13日(日): 素敵なこだわり「Le Pain Quotidien」(ル・パン・コティディアン)
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2011年10月10日

おかあさん、秋だねえ

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 昨日は一日家にこもって書き物をしていたら、ドーンドーンと太鼓のような音が聞こえてきました。何が起こったのだろうとあわてて外に出てみれば、小さな山車をたくさんの子どもや大人がひいています。ドーンドーンという音の次に来たのは、ワッショイワッショイという掛け声が運ぶお神輿でした。こんな静かな住宅街の、こんなせまい道にもお祭はやってくるのです。だって秋ですから。

 ちょっと買い物に出たら、どこからか金木犀の香りが漂ってきました。2年前のあの時と同じように、空は高く澄み渡っています。だって秋ですから。

 母が水平線の向こうに行ってしまったのも、ちょうどこんな美しい秋の日でした。あれから2年と1日。それなのに私はまだ母と話してばかり。

 おかあさん、桜がきれいだねえ。
 おかあさん、なんて暑いんだろう。
 おかあさん、金木犀の季節が来たよ。

 母はたまたま触れることができなくなっただけで
 その気になれば見ることだって、聞くことだってできます。
 だからたぶん、よけいに悲しいのです。

 ワッショイワッショイ ワッショイワッショイ
 私たちの家の前の、車も上がれないせまい路地にも、お神輿はやってきました。

 おかあさん、私、ちょっとだけお祭に行ってくるけど止めないでね。
 大丈夫、もう迷子になったりしないから。
 ちゃんと帰ってくるから。

 おかあさん、秋だねえ。
                          By 池澤ショーエンバウム直美

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10月10日(月)予定: 秋にはやっぱりアップルクリスプ
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2011年09月19日

夢は時に多くのことを語り

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 ケネディーセンターの栄誉ある賞を授与されることになった5人については、昨日お話しした通りです。そして、70歳になったニール・ダイアモンドが、「まっさきに母に伝えたい。」と言ったことも、62歳のメリル・ストリープが、「父母が生きていて、この知らせを聞いてくれたなら。」と語ったことも。そして、それが「愛されて育つ」ことなのだろう、と言うことも。

 さらに付け加えれば、私たちは、たとえ何歳になろうとも、父と母の子どもです。53歳で亡くなった父の年を、私ははるかに越えてしまいましたが、父を思う時の私は年齢に関係なく父の子どもになります。晩年の母はピンポイントの記憶のいくつかを断片的に残すのみで、混沌と曖昧の海にたゆたう幼子のようでしたが、それでも母を思う時、私は母を捜す小さな子どもです。

 毎朝、世界のどこにいようと、空に向かって「おとうさん!おかあさん!」と呼びかけます。嬉しいことがあれば、まっさきに父母に伝えようとします。苦しいことがあれば夫や娘たちに言って心配をかける代わりに、私は父母に「おとうさん、おかあさん、どうしたらいいだろう。」と問いかけます。それはたぶん、私が愛されて育ったからなのだろうと思います。そして、それは当たり前のようでいて、実はとても恵まれたことなのではないかとも思います。

 友人のヒサコさんは、「私は母に愛されていなかったと思う。だから必要最小限な時にしか会いに行こうと思わない。母がそれを求めていないことを知っているから。そして私は今の自分にどんなに嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても知らせようなどと思ったことがない。母にとってはどうでもいいことだから。」と、言います。

 ピーターは珍しく酩酊したある晩、涙で潤み始めた目を向けて、ポツリとこんなことを呟きました。おそらく本人は覚えてもいないでしょう。

「今、父が生きていたらなぐりつけてやりたい。僕らを押さえつけておいて、与えることより奪うことばかりしていた。今、長年の僕の夢が叶ったとしたって、一緒に喜んでもらおうなんてこれっぽちも思わないね。」

 私の父は寡黙で子煩悩な優しい人でした。地道に働き、家族と一緒に囲む食卓での毎晩の晩酌が、一番の幸せであるような人でした。

 私の母は、よく動き、明るく手先の器用な人でした。私が子どもの頃に身につけていた服の大半は母が型紙を書いてミシンで縫い上げたり、ジャージャーと右に左に行ったり来たりする編み機で編んだものでした。グレイの地に紺色のお魚のアップリケがついたワンピースや、セーターの胸の部分に果物籠の刺繍がほどこされたセーターは私の大のお気に入りでした。

 母はあろうことか、私が日本航空の最終面接に着て行く時のワンピースも縫ってしまいました。紺色のフレアースカートで、襟首に黄色の縁取りがありました。そんな服装でもちゃんと採用されたのですから、もしかしたら今よりもずっと自由な時代だったのかもしれません。ごぞんじの通り、今の就職試験というのは、まるで制服のようにみんなが同じスーツを着なければなりませんから。

 とにかく手が早く器用だった母は、その後、なんと私のウェディングドレスと、お色直しのピンクのドレスまで作ってしまったのです。しかも、私が着たウェディングドレスは、だいじに取って置かれて、私の娘たちの七五三のドレスになりました。

 父も母も大した学歴や職歴があるわけでもなく、とりたてて言うほどの実績もないごく普通の人たちでしたが、今思えば、ある種肝っ玉がすわったところがありました。

 私が将来の当てもない風来坊と結婚すると言い出した時も、初めは反対こそすれ、最後にはあきらめて、いったん許してからは私たちの結婚を受け入れ、喜んでくれました。

 私が身重のからだで、日本航空を辞めてギリシャに行くと言い出した時も同じでした。初めは反対しましたが、やはりあきらめ、許し、それ以降は愚痴ひとつ言うでもなく、せっせと毎週、励ましの手紙を届けてくれました。

 父にも母にも、たくさん聞いておきたかったことがあります。たくさん教えてもらいたかったことがあります。いっぱしに大人ぶっているうちに、二人とも帰らぬ人となってしまいました。不器用な私には、セーターを編むどころか、孫のエプロンすら作れません。

 メリル・ストリープとニール・ダイアモンドの言葉を思い出しながら眠りに就いた夜、こんなおかしな夢を見ました。

 私の実家に行くには、曲がった坂の途中にある71段の石段を登らねばなりません。同じように、通りをはさんだ向こう側にも石段があります。夢の中の母は昔のようにやたら軽やかで、通りを横切った向こう側の石段を、ピョンピョンと飛ぶように上がっていくのです。「おかあさ〜ん! おかあさ〜ん! 待って!」と、呼ぼうとするのに、どうしても声にならず、追いつくことができません。母はどんどんと遠くなって、私は階段の途中で一人で残されます。

 夢は時として、多くのことを語り、気づかせます。

                            By 池澤ショーエンバウム直美
 
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9月18日(日):ホワイトハウスのコールスロー
9月19日(月)予告:ホワイトハウスのアスパラガスキッシュ
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2011年09月18日

母へ、父へ〜ニール・ダイアモンドとメリル・ストリープ

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 ワシントンDCには、芸術の殿堂として名高い「ケネディセンター」と呼ばれる劇場があります。もちろん、1963年にダラスで暗殺されたアメリカ合衆国第35代大統領、ジョン・F・ケネディの「ケネディ」です。

 ポトマック川に面したこのセンターには、オペラハウスやコンサートホールなど6つの劇場があります。ケネディ大統領就任前にはすでに建設の具体案ができていましたが、着工は1966年、オープンは1971年でした。ということは、ケネディーは、完成どころか、着工すら待たずして命を絶たれてしまったわけです。

 このケネディーセンターが、先週水曜日の7日に、芸術に貢献した5人のアーチストを選出しました。いわば「2011年ベスト○○賞」と言ったところでしょうか。私たちにもお馴染みの顔が見られます。

 ヨーヨー・マ(Yo-Yo Ma)
 メリル・ストリープ(Meryl Streep)
 ニール・ダイアモンド(Neil Diamolnd)
 ソニー・ロリンズ (Sonny Rollins)
 バーバラ・クック (Barbara Cook)

 記事は2面に分かれて掲載されていますが、5名の顔写真を載せた1ページ目に続くページで目に飛び込んでくるのは、「ジュリーとジュリア」の映画でジュリアを演じたメリル・ストリープのエプロンをかけた姿と、観客を前に両手をあげる、2005年のワールドツアーでのニール・ダイアモンドの大きな写真です。

 70歳になったニールが電話インタビューに答えて語ります。

「信じられなかった!僕が名誉あるケネディセンターの受賞者の一人に選ばれるなんて。正式に決まるまで黙っているように言われたけれど、これでやっと母に伝えることができる。母はもう90を越えたけれど、いまだに僕のコンサートに来てくれるんだよ。」

 そしてメリルが話します。

「受賞の知らせを聞いて本当に光栄に思いました。そしてすぐに、父と母が生きていて、この知らせを聞いてくれたなら、と思いました。私がここまで来られたのは、すべて両親のおかげです。授業料を払って教育を受けさせてくれて、声楽のレッスンにも通わせてくれて、働くことや、奨学金の応募締め切りを守ることや、人を愛することや、生きていく上での規律を守ること、、、そんな、私に与え、教えてくれたことの全てが、今、果実を実らせました。二人がまさか夢にも見なかったような素晴らしい果実です。」

 5人の受賞者のうち、2人が、父や母への思いを語っているのが心に残りました。子どもならまだしも、二人とも「いい大人」なんですから。でも、それが「愛されて育つ」と言うことなのだろうと思います。そして、たとえもうこの世にはいなくても、自分の喜び、自分の幸せを伝えたい誰かがいるというのは、とても幸せなことだと思います。

 そんな二人の言葉を思い出しながら眠りに就いたら、昨夜は珍しく母の夢を見ました。その余韻の中で、朝から母との思い出をなぞっていたら、水面下に眠っていた色々なことが思い出されてきました。そして、教えてもらうつもりでいたのに、果たせなかった事を数えました。そんな思いは、またあらためて書きたいと思います。

 授賞式は、12月の最初の週末に、国務省とホワイトハウスで行われ、全米にテレビ中継されます。

                          By 池澤ショーエンバウム直美

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9月11日(日):オバマバーガー?
9月12日(月):巨大マッシュルーム登場!
9月13日(火):つい寄ってしまうDCヌードル
9月14日(水):DCヌードルvs讃岐うどん
9月15日(木):ジュディーの食卓
9月16日(金):カボチャの花畑!
9月17日(土):勘違いのケイジャン料理教室

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2011年01月08日

みんな良かったねえ。

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 お正月のお飾りもはずされて、町も家も人間も、日常の顔に戻ってきました。「お正月だから」と逃げていられなくなった私も、頭を少しずつ仕事モードに切り替え始めました。まずは延び延びになっている案件から片付けようと、来週のどこかで会合を開くためのメールのやり取りをしている最中に、相棒から突然こんな連絡が入りました。

「恥ずかしながら、今朝、庭で思いっきりコンクリートの上に転び、顔の左半分がお岩さんのように腫れてしまいました。1週間もすれば外出できるとのことですが、来週末までは自宅安静が必要となりました。幸い、レントゲンとCT検査では、骨と脳の異常は見られないことがわかり、不幸中の幸いと胸をなでおろしています。しばらくの間、幾分痣にはなるようですが、命あっての日々に感謝をしています。来週の会合は無理になりましたが、片目で書類を読むぐらいはできますので、できることがあれば何なりとおっしゃってください。」

 急いでお見舞いのメールを送って、今後の段取りについて考えていたら、今度はアメリカの親友ジリーからのメールです。

「夜中に目が覚めて、台所にお水を飲みに行こうと思ったら階段から滑り落ちてしまいました。いやというほど腰を打ち付けて、新年早々病院通いですけれど、顔や頭じゃなくて良かったわ。手も頭も使えるので感謝しています。ナオミも気をつけてね。」

 全く何が起きるかわからないもの。「気をつけてね。」と言われて、「はい、気をつけます。」と答えたって、いったい何をどう気をつければいいのでしょう。こんな話を相次いで聞くと、とりわけ粗忽者の私が無傷ですんでいるのが不思議なぐらいです。

 身近なところでは、正月早々インフルエンザにやられた娘。9度を越す高熱は何とか薬で下がったものの、まだまだ回復への道は遠し。そんな中で、キャンセルすることもできない仕事の山に取り組んでいる姿を見ると、無理をしなければならない状況であることは重々承知の上で、ついつい「無理しないでね。」。

 「ママが移したからだ!」となじられるかと思えば、やけに明るい声で、
 「大丈夫よ。今やっちゃえばもうこれからかかる心配もしなくていいし、感謝してるぐらい。」

 日本の友も、アメリカの友も、わが娘も、そんな大変な状況の中で使った共通語は「感謝」。彼らなら大丈夫、きっと我が身の不運を呪う人たちよりもずっと楽に山場を越えられるでしょう。

 私の母が生きてたら、きっとこう言ったに違いありません。それが母の口癖でしたから。
「みんな良かったねえ。これで今年の災難を全部使っちゃったから、あとはもう大丈夫!」

 元旦にいただいた黄色い百合の花が、数えてみたら15輪も大きく咲いていました。残る蕾はあと5つ。がんばれ、がんばれ。
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1月7日(金):拡大家族の祝宴

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2010年10月03日

秋風が 運ぶ香りに 母さがし

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 あれはたしかに金木犀の香りでした。
 暗い夜道を家へと急ぎながら、どこからかフワッと漂ってきたのです。

 一瞬のできごとでした。その後を追って行きたくても、まるで蜃気楼のようにはかなく消えてしまいました。けれども、あれは確かに、今年最初の金木犀の香りでした。

 もうそんな季節になったのでしょうか。

 もうすぐ母の1周忌を迎えます。
 母が旅発った日も、あの香りが風に運ばれてきました。
 母の華奢なからだが、一筋の煙となって天高く上っていった日、涙が乾くまで空を見上げていた頭を下げると、すぐそばにあの花が咲いていました。クラクラするような香りが呆然と立ちすくむ私を包み込みました。

 今夜、消えてしまった香りに母を捜し、帰りの道すがらハラハラと涙を落としました。あれから何ヶ月も流したことのない涙でした。

 時折、街の雑踏の中で、母によく似た人を見かける時があります。
 時折、混み合った電車の中で、母によく似た声を聞くことがあります。

 けれども、視覚にも聴覚にも増して、香りは捉えどころのない泡沫(うたかた)。思い出を深く、深く、呼び覚ますのです。嗅覚ほどせつないものはありません。ずっと我慢していた思いが、揺さぶられてしまうのです。

 写真の空は、母が逝った日の空です。
 写真の花は、母が逝った日の金木犀です。

 秋風が 運ぶ香りに 母さがし

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グローバルキッチンお品書き
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10月4日(月)予告:またまた登場 都心の水辺レストラン「バグース」

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2009年03月10日

哀しみ、そして、ありがたさ

 クレタ島への出発が迫っているというのに、片づけなければならない仕事がまだまだ気が遠くなるぐらい残っています。一日が30時間だったらいいのに、などと途方に暮れながらも、今日はどうしてもしなければいけないことのために長い時間を使いました。そのしわ寄せでたとえ眠りを削られようとも、それをしないままに旅立ってしまったらとても後悔するだろうと思ったからです。

 南へ南へと電車、バス、タクシーを乗り継いで行けば、私をこの世に生み出し、慈しみ育ててくれた母がいます。もうすぐ83歳になろうとしている母は、この何年か入退院を繰り返し、めっきりと痴呆が進みました。旅行が大好きな行動的な人でした。世界のあちこちへ旅をして、あんなに嬉しそうにその思い出を語っていたのに、今は全ての記憶が失せてしまいました。もう私が娘であることすら思いだせません。

 9人で暮す山の上のグループホームのドアをそっと開けて中に入ると、車椅子に乗ったその人の後姿が見えました。この間会った時からまた一回り小さくなってしまったようです。 「おかあさん!」 と後ろから抱きついて、頬をすりよせ、手を握ると、一瞬、母の顔が確かに輝きました。でもそのすぐ後にまた元の無表情な顔に戻り、私の顔をじっと見たまま、
「まあ、おきれいな方!」とお世辞を言ってくれました。
「あたりまえでしょう。だってお母さんの娘なんだから。ほら、こんなにきれいなお母さんの。」

 こんな風に哀しみを茶化すことにも今ではすっかり慣れました。母がひたすら繰り返す意味のない言葉を全て受け入れて、優しく聞いてあげることもできるようになりました。

 「あなた優しい人ね。」
 「そうよ、だってお母さんのこと、大好きなんなだもの。」

 並んでお昼ご飯を食べました。油揚げと豆腐とミョウガの味噌汁、小さく切った柔らかいカツと千切りキャベツ、こんにゃくとさつまいもと人参の白和え、長いもとオクラとナメタケのおろし合え、ホームの庭で採れたブロッコリーのお浸し、紅白の膾、そして白いご飯。赤ん坊のように首からエプロンをつけた母のスプーンに手を添えながら、 「おいしいねえ。」 と言いながら食べる食事は、私には本当に、 「ベージュ東京」 の豪華なディナーよりもおいしく思えました。最後に母が、大好きなトンカツの一切れを残して、 「これ食べなさいな。あなた若いんだから。」 と私のお皿に乗せてくれました。

 3人のスタッフで切り盛りするこのグループホームでは、こんな手づくりの食事を毎日作っています。 「どうせ何を食べたっておんなじなんだから。」 などとは露とも思わずに、認知症の老人たちの尊厳を大切にしてくれているのです。母の隣の部屋の98歳になったトメさんは、いつも寝ている間に、オシメを片方だけきく手で外しては、ベッドも寝巻きも汚物まみれにしてしまいます。それでも手を縛ることもなく、リーダーの林田さんは平然と言います。 「いいんですよ、手を動かすこともリハビリですから。」

 母を訪ねる時、私はいつも哀しくて
 母を訪ねる時、私はいつもありがたくて
 母を訪ねる時、私はいつも自分の小ささを思います。

 次に行く時はもっと時間を取りましょう。こんなあわただしい行き帰りではなく。だって母の暮す山はきっと桜が満開になっているでしょうから。

 

 
 


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