2013年02月28日

飛び回れMy Heart〜内地から南洋群島へ

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(T)表定豫期定間島群洋南地内
社會式株船郵本日
月三年九和昭至一月九年八和昭自

どうぞ右から読んでください。
すると意味がわかります。
昭和八年九月から昭和九年三月までの
内地(日本国内)と南洋群島の間を結ぶ
日本郵船定期路線の時刻表です。

たとえば、
九月五日神戸發の東廻り「丸江近」(近江丸)ならば
門司に寄って、横濱に寄って、サイパンに寄って、トラックに寄って
ポナペに着くのが廿四日。
翌日の廿五日にポナペを出た船は、クサイに寄って、ようやっと
九月廿九日に最終目的地のヤルートに到着します。
神戸からヤルートまでは25日間の航海ということになります。

丸江近(近江丸)はそのままヤルートに滞留し、再び元来た航路をたどって神戸へと帰ります。潮の流れのせいでしょうか、帰りは行きよりも短く20日で帰り着きます。

西廻りならば、航路は、神戸〜門司〜横浜〜サイパン〜テニアン〜ヤップ〜パラオです。航海日数は17日です。9月から翌年3月までの7か月の間に出航する9本の西廻り船のうち、6本はダバオにも寄りますし、5本はメナードに、3本はアンガウルにも寄ります。もちろんその場合には航海日数も長くなります。「西廻線山城丸ハリンジ『ソンソル』及『ゴロンタロ』ニ寄港スルコトアルベシ」と欄外に書いてありますから、時にはさらに長丁場になったのでしょう。

昭和8年と言えば1933年、第一次世界大戦も終わって15年たった頃です。当時、近江丸や山城丸が行き来していた南洋の島々は日本の統治下にありました。パラオ島には開発のための南洋庁が置かれ、最盛時には1万人以上の日本人が住んでいたと言います。

主な島々に設置された学校では日本語による教育が施されました。私が父と慕っていたポナペ島のセピオさんも、地酒のシャカオで上機嫌になると、「あの時代はよかった。日本の学校でたくさん勉強させてもらった。」と言うのが口癖でした。実際、とてもきれいな日本語を話す人でした。「私の中には大和魂がありますから。」というのもセピオ父の口癖でした。

私が好きな彫刻家に、「土方久功」という人がいます。1900年に生まれ、35年前に亡くなりましたが、彫刻家の域を飛び出して、詩人としても民族誌家としても素晴らしい方です。

1929年3月7日、土方久功は「山城丸」で横浜を発ち、パラオへと向かいます。パラオ島のコロールに着いた土方は南洋庁の嘱託に雇用され、島内各地の学校で2〜3か月ずつ生徒に彫刻を教えることになりました。けれども、文明の波に浴されていくパラオに馴染めずに、まるでゴーギャンのように、僻地へ、僻地へと移り住んでいくのです。再びパラオに戻ったのは、サタワルという離島で7年を過ごした後でした。

娘たちが小さかった頃から、私たち家族は随分といろいろな冒険をしてきました。日本郵船の定期予定表に載っている南洋の島々にはおおかた行きました。ある時は、小さな島から島へと食物や雑貨や薬を運ぶ貨物船の甲板で、島の人たちや、豚や鶏などと一緒に何日も航海をしました。寄港した島の民家で水を借りて顔を洗い、日がな一日、水平線と島影だけを見、時には釣りをしたり、船酔いに苦しんだりしながら、「おそろしく退屈な日々」を過ごしました。

なんという贅沢な退屈だったでしょうか。あんな退屈は後にも先にもありません。

今では飛行機の飛ぶ島も多くなり、神戸からヤルートまでなら乗り継ぎさえうまく行けば一日で行けるかもしれません。退屈をする暇もないでしょう。

でも、今、ここに、「パソコン片手に一っ跳び」、「おそろしく退屈な航海」、という二つの選択肢があったなら、まず迷うことなく選ぶのは、「おそろしく退屈な航海」の方でしょう。甲板で日に焼けたって気にやしません。水平線と島影と、時々飛び跳ねる魚たちにしか会えなくたってかまいやしません。「浪漫飛行」流に鼻歌など歌うとすれば

何もかもが 知らないうちに
形を変えてしまう前に
   ・
   ・
トランク1つだけで 浪漫航海へ On the Sea
飛び回れ このMy Heart

By 池澤ショーエンバウム直美

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posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 07:21| Comment(0) | マイドリーム
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