2011年06月30日

私にできることって?〜震災への思いの中で


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 この暑い中、友は先週末も、陸前高田へと車を走らせました。1週間の仕事を終えた金曜日の夜に3人の仲間と共に東京を出発し、北へ北へと走りました。土曜の朝には、陸前高田のボランティアセンターに到着し、各地からやってきた人たちと一緒に、その日の仕事を割り当てられます。そうして一日中働き、また長い時間車を走らせて東京へ戻り、何食わぬ顔で月曜日の朝にはそれぞれの職場に出勤します。そうしたことをもう何度も繰り返しています。

 先週末は、瓦礫をかたづける作業でした。家があり、ごく普通の家族の生活が営まれ、庭では野菜が育っていたその場所の瓦礫をひとつずつ取り除いていけば、本も出てくればオモチャも出てくると言います。3時20分を指し続ける時計は、この場所に津波が押し寄せた時間を刻んだままです。

 「この仕事は被災者の方々にはやらせたくない。」と呟く彼女は、同時にこんなことをも語ります。

 黙々と働く彼女たちのそばに、おばあさんがやってきて、「あんた方、どこから来たの?」。「東京からです。」と答えると、おばあさんはこう言ったというのです。

「悪いねえ、そんな遠くから。え、日当も出ないのかい? 本当に悪いねえ。
 でもねえ、来年はきっときれいになってるからさ、また遊びにおいでよね。」

 現地でのボランティア活動の誘いを受けたのはワシントンにいる時でした。不器用な私に何ができるだろうか、かえって足手まといになりはしないか、と思い悩んでいた時に、夫がきっぱりと言いました。

「君はやめたほうがいい。君が現場に行ったなら、その後しばらくは立ち直れなくなるだろう。ここに来てからずっと感情がアップダウンしている君を見る限り僕はそう思うよ。無理はせずに君ができることをしなさい。何ならできるのかを考えなさい。」

 たしかにその頃の私はかなり不安定な状況にありました。テレビや新聞の報道に泣き崩れ、自分ばかりが安全な所にいることで自分を責め、アメリカでの募金活動がうまく進まないことに自分の無力を感じていました。

 それが、そもそもの始まりでした。無力な私にできることがあるとすれば、企画をし、志ある人たちを集め、みんなの力でワッショイワッショイと動いていくことでした。

 8月14日(日)13時半から、「港北から東北へ〜願いは音にのせて」と言うチャリティーコンサートを開催します。場所は東急東横線大倉山の港北公会堂です。ボランティアの仲間たちからの本音の現地報告も盛り込みます。

 5月8日の夜にアメリカから帰国してすぐに、出演者たちとの折衝をも含め準備を進めてきました。「汗水たらして」ではなく、できる形でゆったりと。

 ありがたいことに、地元の商店街が協賛をしてくださることになり、この地と縁のあるギリシャの政府観光局が後援についてくださることになりました。昨年から仕事で関わっていた東京郊外の大学が、被災地支援のために作ったTシャツと共に駆けつけてきてくれることにもなりました。香り空間の演出家は、皆様をお迎えする入り口を癒しの香りで満たしてくれることになりました。そして、それに要する実費を負担してくださる篤志家の方も現われました。コンサートの進行を手がけてきた知人は、助っ人を名乗り出てくれました。

 600名ものホールに、いったいどれだけの方々にお集まりいただけるかはわかりませんが、一枚千五百円のチケット代は、最小限の実費をひかれた後で、ボランティアチームによって直接陸前高田に届けられます。

 大倉山は私が人生のある時代を過ごした場所です。とてもとても幸せな時代でした。そんな土地にたくさんの優しい心が集まるなんて、なんとありがたいことでしょうか。

 目下、ポスターとちらし、チケットを準備中。もう少し詰めが必要な所もあります。また、時期が来ましたらきちんとご案内をさせていただきます。

 紫陽花の美しい季節になりました。紫陽花だってよく見れば、小さな花の集まりです。

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6月26日(日):かき氷? いえ、シェーブドアイス@ハワイ
6月28日(火):「一日中朝ごはん」のEggs’n Things@ハワイ
6月29日(水):ナマスの活躍@TOKYO

posted by 池澤ショーエンバウム直美 at 12:33| Comment(0) | 地震

2011年06月29日

ノーマン・ロックウェルじゃありませんか?

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 今日もまた暑い一日が始まりました。木の葉を揺らす風もなく、熱気が空気を押さえ込んでいるようです。

 月曜、火曜と続けた「ノーマン・ロックウェルの世界」ですが、もう1回だけ。今日はロックウェル、その人について、美術館を歩きながら少しばかり知ったことを、書き残しておきたいと思います。

 22歳で才能を見出され、47年で323回も「Saturday Evening Post」の表紙を飾ったことはすでに述べました。私が興味をひかれるのは、そんな彼の晩年の生き方です。人と比べることなどは、もう随分前にやめてしまいましたけれど、それでも人がどのように晩年を過ごすかには興味があります。ということは、私自身がそうしたステージに乗ろうとしてる、あるいはすでに乗ってしまったということでしょう。

 1961年、67歳の時、ロックウェルはMolly Pundersonと3度目の結婚をします。美術館の壁にかけられた写真を見る限り、ストックブリッジという小さな田舎町の教師をしていたモリーはとりわけ美人でもなく、どこにでも居そうな地味なアメリカの中年女性です。おそらくロックウェルとはさほど年齢も違いはしないでしょう。華々しい社交生活を送っていたであろうロックウェルとは一見不釣合いなようにすら見えます。

 しかし、それからの二人は、1962年から75年までの13年間で、28カ国を共に訪れる旅人となるのです。ロシア、インド、コロンビア、メキシコ、、、、、、、旅を終えた1975年といえば、ロックウェルはすでに81歳です。

「For Rockwell travel was a means of rejuvenation and reprieve from the burden of fame.」
(ロックウェルにとって旅は元気を回復する若返りの方法であると同時に、名声という重荷から逃れることでもあった。)

「I like to travel to foreign countries. There, there isn’t someone always saying “Aren’t you Norman Rockwell?”」
(外国へ旅をすることが好きだ。そこでは「ノーマン・ロックウェルじゃありませんか?」と言われずにすむからだ。)

 68歳から81歳まで旅を続けたノーマンとモリー。私たちは行く先々で、「○○さんですか?」などと言われるような著名人ではありませんし、名声という重みもありませんが、13年間で28カ国という年の行った夫婦の暮らし方は、どこか私たちの暮しを髣髴とさせるものがあります。

 旅から旅の合間に帰るのは、ノーマン・ロックウェル美術館のあるマサチューセッツ州の小さな田舎町、ストックブリッジの家でした。ロックウェルのたくさんの絵の中に、ストックブリッジの町を描いた横長の絵があります。驚いたことには、それからおそらく数十年はたとうというのに、ストックブリッジの通りは、今でも全く絵の中の町と同じなのです。店の並びも、店構えも、、ほとんど変わっていません。

 絵の中にあったカフェに入ったのは、雨の降る水曜日、肌寒い春の日のことでした。「Fly Me to the Moon」が流れる中、男3人、女2人のもう若くはないグループが、通りに面した窓際のテーブルを囲んで、話に花を咲かせます。カウンターでは、ロックウェルの絵から出てきたような婦人が一人、本を読みながらスープを口に運んでいます。BGMは、「Fly Me to the Moon」から「Love for Sale」に変わりました。

 黒板に白墨で書かれたメニューは、ブルーベリーアップルパイや、チョコレートファッジ、ローストターキー、豆のスープ、チリコンカルネなど、おそらく「あの時代」と同じもの。カウンターの上には焼きあがったばかりのカップケーキが置かれています。

 アメリカが時々とてつもなく面白く思えるのは、こんな時です。
 
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2011年06月28日

Isn’t it amazing? 〜ノーマン・ロックウェルの世界

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 小雨に煙る肌寒い5月の日、マサチューセッツ州ストックブリッジ郊外の森の中に静かにたたずむ美術館で目に付いたのは、私たちのような大人の来訪者よりも、絵の前にすわる、たくさんの小学生の子供たちでした。

 一グループが約20人。先生や保護者らしき人が付き添っているグループもあります。
子供たちは小さな折り畳み椅子に座って、絵を背景に話をする大人の声に、熱心に耳を傾けています。

 話が終われば、みんなめいめいに椅子を持って次の部屋へと移ります。そんなことが繰り返されて、館内はまるで色とりどりのかわいらしい回遊魚たちの水槽のようです。

 子供たちの前で、ロックウェルの世界について語るのは、おそらくはその世界にかつて属していたであろう年配のガイドであり、ナビゲーターであり、思い出す人たちです。

「ねえみんな、この子供たちは何をしていると思う? どんなことを考えていると思う?」
「この人たちはどうしてここに立っているんだろう?」
「もしも君だったらこんな時どんな気持ちになる?」

 こんな風に、たくさんの質問を投げかけて、子供たちに考えさせます。
 子供たちが次々に手をあげると、ひとりずつに発言の場を与え、どんなおかしな答をも
「それは素敵な考えね。」と受け容れて、「でも、それならなんでこの子はニコニコ笑っているのかしら。もうちょっとよく見てごらんなさい。」と、また考えさせます。

 そして最後に決まってこう言います。

「そうみんなよく考えたわね。そうなの、ロックウェルが描きたかったのはねそういうことなの。Isn’t it amazing?」

 「ね、素敵じゃない?」なんて、本当になんて素敵な言葉でしょう。
 こうして子供たちは館内をまわり終わった頃には、まるで絵の中に出てくる子供たちのように子供らしい顔になり、自分たちの親たちの時代、いえ祖父母たちの時代への興味がはぐくまれていきます。

 一人、とりわけ素敵なガイドの女性がいました。きれいに輝くシルバーの髪をして、大きなパールのネックレスにベージュのパンツと、金色の名札を付けたブルーのジャケット。首からはピンクとグレーのグラデーションのシフォンのロングスカーフをふわりとたらして、花のついた白いフラットシューズを履いています。

 話の間の取り方、声のトーン、指の使い方、視線、すべてがパーフェクトです。数字でさえも的確に自信をもって語ります。深くきざまれた皺さえなければ、ロックウェルの絵の中の素敵なマミーのようです。

 最後に、腕白坊主が一人、こんな質問をしました。

「失礼ですが何歳ですか? この絵の中のようなことを実際に知ってるのですか?」

 すると嬉しそうににっこり笑ったその女性が、誇らしげに答えました。

「Yes, of course I know. I am 90 years old.
Isn’t it amazing?」

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2011年06月27日

古き良き時代〜ノーマン・ロックウェルの世界

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P6233634.JPG 戦地から帰還したばかりの軍服の青年が、きちんと七三に分けた髪で、長い足をもてあますように折り曲げて、木の椅子に座って玉ねぎを剥いています。隣りにいる母は時に手を休め、優しいまなざしでじっと青年を見つめては彼の話を聞いています。

 P6233635.JPG獣医さんの待合室で不安げな面持ちで椅子に座る小さな少年は、膝に乗せたビーグル犬を、両手でしっかりと抱いています。大人しく座る犬は、顎の下から真っ白な包帯を頭の上までまかれて、まるで小さな兎の耳のようにリボン結びにされています。順番を待つ少年は、まだ床に届かないつま先を逆八の字にして、一生懸命犬を守っているようです。それを遠巻きに見守る大きな犬、小さな犬、白い犬、黒い犬、そしてピンクの服を着せられた子犬たち。

 P6233636.JPG大テーブルの家族の食卓では、今まさに白いエプロンのおばあちゃんによって大きな七面鳥が運ばれました。後ろから皺くちゃの手で支えるのは、しっかりと背広を着て、ネクタイを締めたおじいさんです。テーブルを取り囲む子供や孫たちは、身を乗り出して笑いとおしゃべりに興じています。

 P6233637.JPG街道沿いの大衆食堂で相席になったのは、くわえタバコの2人の若い男たちと、孫息子を連れた老婦人でした。指を組んで食前の祈りをささげる婦人は、質素な黒いドレスに身を包み、頭には帽子をかぶっています。左脇に座る孫息子も、黒い半ズボンに糊のきいた清潔な白いシャツを身につけて、頭を垂れて一緒に一生懸命祈ります。そんな二人を不思議そうに眺める男たち。汚れた皿が置きっぱなしになった小さな食堂の床には、少年の帽子や、祖母の日傘、鞄が置かれています。どこか遠くの親戚を訪ねる途中なのでしょうか。

 マサチューセッツ州ストックブリッジ郊外の森の中にある「ノーマン・ロックウェル美術館」を訪ねたのは、ちょうど今日のような小雨に曇る日でした。木の葉も芝も静かに濡れる、5月初めの遅い春でした。

 そこには、私が子供の頃いだいていた憧れのアメリカがありました。一枚一枚の絵は細部まで綿密に描かれ、完璧と言えるほどに一つのストーリーを構成しています。

「Rockwell continued to document the postwar baby boom with image of family life.」
(ロックウェルは、アメリカのファミリーライフのイメージと共に、戦後のベビーブームを描き続けた。)

美術間の壁にはこんな言葉がありました。「draw」(描く)ではなく、「document」(文書で証明する)と言う単語が使われるほどに、彼の絵は「物語」であり、「イラストレーション」です。想像力を働かせてみれば、そこから様々なライフストーリーが紡ぎだされます。

 ノーマン・ロックウェル、1894年に生まれ1978年に亡くなったこのアーチストは、1916年、若干22歳にして当時の「Saturday Evening Post」誌の編集者に見出されます。以来47年間、323もの同誌の表紙を描き続けました。森の中の一軒家のような美術館に展示されているのは、それらの絵の一部です。1943年に彼のスタジオで起きた火災によって、多くの絵が消失してしまいました。そして残った絵のほとんどが、彼が晩年の25年間を過ごしたストックブリッジの、この美術館に所蔵されています。

 もちろん館内での写真撮影は禁止されています。私がミュージアムショップで買った絵葉書が上の5枚です。けれども、そこにはまだまだ無数のストーリーがありました。

 おそろいのピンクのドレスを着ておめかしをしたママと女の子。2人のやんちゃ坊主も帽子にソックス、黒い革靴で正装をさせられて、パパと一緒に二人のレディーの後を歩きます。

 3人の少年ははだしに釣竿をかついで釣りに出かけます。

 クロッカスの黄色い蕾を見つけた小太りのおじさんは、左手の人差し指で花を指し、もう片方の手を口にあてて「お〜い!」と誰かを呼んでいます。

 ピンクのフリルのドレスを着て、巻き毛の頭に同じピンクの大きなリボンをつけた少女は、靴屋のおじいさんのかたわらに立って、小さなお人形の靴の修理をしてもらっています。

 ウェストを固く絞った黄色いワンピースに白いハイヒールのチャーミングな若い女性は、自分よりも顔ひとつ分だけ大きい青年と並んで、緊張した面持ちで背伸びをしながら、白手袋をはめた手で結婚証明書にサインをしています。

 三つ編みにリボンの少女は、熱があるらしいお人形の腕をとって脈を計っているドクターの手元を、心配そうにのぞきこんでいます。

 まさに「古き良き時代」の場面です。
 現実にはもう見つけることの出来ない場面を、思い出として懐かしむ人もいるでしょう。
そんな時代を語り、語り継がれる人もいるでしょう。

 明日は、たまたま居合わせた、そんな「語り継ぎ」の場面についてお話しします。

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2011年06月26日

私の断捨離

海岸の子供たち.JPGRIMG10535.JPGRIMG10536.JPG 

 最近あちこちで目にするようになった「断捨離」という言葉。
 身辺を小ぎれいにするためには、断ったり、捨てたり、離したりする意志の強さが必要なことは百も承知なのですけれど、どうも鉈をふるうことが苦手で、自然の流れにまかせて怠けているうちに、身辺にどんどんと物がたまってきてしまいました。

 たまっていけば、当然ながらストレスは高じます。たとえば、今私がいるこの小さな仕事部屋だって、机の上や床の上に空き地がたくさん見える時と、本や書類や箱や鞄で建ぺい率を大巾に超過している時では、たとえ誰に見られるわけではなくとも、気持ちが全く違います。

「身辺小ぎれい派」の友人たちを見ていると、別段「ようし、断捨離やるぞぉ!」などと勢い込まなくとも、ごく自然に日常生活の中で、手を動かし、足を動かしています。とは言え、そうなりたいと思ってはいても、できないのが生まれ持っての性分です。ならば、勢いつけて、覚悟もつけて、意志も堅固に手足を動かさねばなりません。

 起きてみたら、この数日の猛暑のあとでは信じられないぐらいにひんやりした空気です。今がチャンス!とばかりに2時間ほど動いてみたら、大きなポリ袋2つがいっぱいになりました。見つからなくて何度も印刷した書類があちこちから出てきたり、探していたホッチキスが見つかったり、引き出しだって2つ空になりました。机の上には本来の木肌が見えてきました。絨毯の上だってちゃんとまっすぐ歩けます(笑)。隙間ってこんなに心地良いものだったでしょうか。

 3月のあの日以来、多くのものが変わってしまいました。明日から明後日へ、明後日からそのまた次の日へと続くのが当たり前だと思っていた「時間」は、実は不確実なものでした。そんな現実を目の前につきつけられて、子供の頃、ミカン汁で書いた絵を火鉢の上にかざした「あぶり出し遊び」のように、大切なものが浮かび上がってきました。いつかやろうと思っていたことを、早くしなければ、と思うようになりました。家族を思う気持ちもより深くなりました。そして、限られた時間なら、私でなくてはできないことに、その時間を使いたいと思うようになりました。

 あれ以来、随分と人付き合いも悪くなりました。会いたい人たちはたくさんいても、今日という日はどうやったって24時間。今しなければならないことのためには、そのための時間を作らなければなりません。今年になって一念発起習い始めたお稽古事も辞めました。

 手帳を広げて「見て、私こんなに予定がつまってるのよ。」と隙間のないページを見せる友をうらやましいと思ったこともあります。ひっきりなしに携帯電話がかかってきては食事の席を中断し、「ごめんなさい、ちょっと仕事の電話だったもので。」と戻ってくる友に憧れたこともありました。けれども今は、手帳に隙間があれば嬉しくなりますし、電話が鳴らなければ鳴らないでほっとしたりもしています。

 毎日書かねばと義務感にかられていたお料理ブログの方も、書きたい時にだけ書くことにしました。となると不思議なもので、書きたい気持ちが湧いてきます。

 このブログも時々ポコッと空いてしまうことが出てきました。今までは、どんなに遅く帰ってきても頑張って毎日書いていたのが、あれ以来、自分のからだを気づかうようにもなりました。限りある時間をきちんとした思いで生きるためには、頑張りすぎてはいけないことも、おぼろげにわかり始めました。

 意識をしたことはありませんでしたが、こんなことも「断捨離」なのでしょうか。

 それにしても、この「断捨離」と言う言葉、もう少し優しい響きの言葉にならないものでしょうか。「断」「捨」「離」、どの漢字も、私にはきつくて、冷たくて、見るたびになんだか怖くなってしまいます(笑)。

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2011年06月24日

海を見る自由を再び!

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 行く先々でいろいろな大学のキャンパスを歩きます。夫の仕事がらみだったり、私の仕事がらみだったり、ただ単に歩きたいからだったり。5月のニューイングランドでも、たくさんのキャンパスを歩きました。

 ニューロンドンの小さなリベラルアーツカレッジのコルビー・ソーヤー。
 アメリカ独立戦争以前に創立された、長い歴史を持つアイビーリーグの名門、ダートマス。
 全米リベラルアーツカレッジランキングで第一位を誇るウィリアムズ。
 ウィリアムズと並ぶアメリカで最高峰のリベラルアーツカレッジ、アマースト。
 そしてアメリカで一番古い女子大、マウントホリオーク。

 キャンパスを歩くのが好きなのは、そこが市井の日常から離れた特別空間だからであり、守られているサンクチュアリーだからです。特にアメリカやヨーロッパの大学にはそうした空気がありますけれど、私が16年間仕事をしていた日本の大学だってそうでした。何と言えばいいのでしょう。知を得る贅沢の中にいる人たちがかもしだす、独特な空気と言ったらいいでしょうか。それを許されている特権を持つ人たちが身にまとう精神の自由と言えばいいでしょうか。それは、高層ビルのオフィス街を闊歩していた時代とは全くちがうものでした。

 大学での仕事から離れてはや6年、時折むしょうにキャンパスを歩きたくなるのは、たとえ一時でも、たとえ擬似的にでも、そうした空気の中に戻りたいからなのかもしれません。

 けれども、小さな町ごとカレッジになっているようなウィリアムズ大学のキャンパスを歩き、学生たちに会い、柔らかな日差しの中で芝生にすわっているだけで、あれほど自由で、あれほど開放的な気持ちになり、「今なら世界と向かい合えるような気がする。」とまで思わせたのはいったい何だったのでしょう。

 あれ以来随分長い間そんなことを考えていて、ようやく気づきました。

「大学に行くとは『海を見る自由』を得るためなのではないか。言葉を変えるならば、『立ち止まる自由』を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。大学という青春の時間は、時間を自分で管理できる煌きの時なのだ。」

 これはもう皆さんよくご存知のことと思いますが、震災で卒業式を中止したある学校の校長先生から、卒業する生徒たちへと送られたメッセージです。

「池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭をもってもそんなことは出来ない。『今日ひとりで海を見てきたよ。』そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。」

「時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。いかに悲しみの淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。海を見つめ大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。」

 高校3年生に当てたこのメッセージを読んだ時ほど、もう一度18歳に戻りたい、と思ったことはありません。それができないからこそ、行く先々でキャンパスを歩き回っては、たとえひと時でも、「海を見る自由」を得ようとしているのに違いありません。

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2011年06月23日

なんで? なんで?

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「泳ぎたい!」って言うから
「じゃ、泳ごうか。」って言ったら
「なんで泳ぐの?」

「なにしてるの?」って聞くから
「クレヨンで絵をかいてるの。」って答えたら
「なんでクレヨンで絵かいてるの?」

「雨が降ってきたね。」って言ったら
「なんで雨降ってきたの?」

「ほら虹が見える!」って言ったら
「なんで虹見えるの?」

「いい気持ちだね。」って言ったら
「なんでいい気持ちなの?」

 3歳になったばかりの小さな少年は、「なんで?」「なんで?」の連発です。
 私は「なんで?」と聞かれるたびに一生懸命考えます。
 そう言えば、娘たちが小さかった時もそうでした。
「なんで?」「なんで?」と問われるたびに、「なんでだろう。」と考えて、娘たちと一緒に成長しました。今もまた、小さな少年と一緒に、少しずつ背が伸びて、見えなかったものが少しばかり見えてきたりもしています。

 いつの間にか、雨が降ることも虹がかかることも当たり前の大人になってしまってからは、「なんで?」なんてたいして考えてもみませんでした。今は「なんで?」ばかりの小さな少年だって、きっとそのうちそんな問いから卒業してしまうのでしょう。

 けれども、今、新米グランマとして願うことは、いつまでもいつまでも、たとえ大人になっても「なんで?」の少年でいてほしいということ。そして、「なんで?」「なんで?」って一緒に考えたいな、っていうこと。

 この地球はまだまだ不思議なことだらけ。
 いくら生きていたってまだまだわからないことだらけ。
 ドキドキすることや、ワクワクすることだってたくさん。

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2011年06月22日

ニジ? に・じ。きれい。

イズ.jpg虹.jpgプレート.jpg 
 明るく美しい朝を迎えました。6時に目が覚めてしまったら、外はもう光り輝く世界になっていてびっくり。

 それにしてもなんと言う蒸し暑さでしょうか。常夏のハワイでも、熱帯のプエルト・リコでも、真夏のニュージーランドでもかかなかった汗を、この3日間、いやというほどかいています。それでも冷房が苦手な私は、一人の時には節電もあって、窓を開け放っています。かといって貿易風の地のように、サワサワと風が通り抜けるわけでもないのですが。

 こんな時に聞きたくなる音楽はいくつかありますけれど、今日は朝からIZ(イズ)をかけながら仕事をしています。蒸し暑さですら、心地よさに変えるIZの歌力に頼りながら。

 時としてIZの歌はまるで祈りのように、ひたひたと哀しみで、しんしんと喜びで、心の奥底を揺らします。2年前、ホノルル郊外、カハラホテルの祝宴の席で、人々のざわめきと、寄せては返す波音の合間に心地よく流れていたのが、彼の歌でした。以来、私は、何かにつけては、その声を聞くようになりました。こんな蒸し暑い日にも、たとえ寒さに凍える日でも、そして悲しみに沈む時も、喜びに心躍る時も。

 「IZ」、ごぞんじでしょうか。本名は「Israel Kamakawowo’ ole」という、やたら長い名前のハワイの伝説のシンガーです。なぜ伝説かと言えば、今はもういないからです。人が「伝説の人」になるのは、いつだってこの世での役目を終えた後ですから。

 340キロを超える巨体から、わずか38歳の若さで亡くなった14年前、ハワイ全州は深い悲しみに包まれたと言います。彼の葬儀には2万人を超える人たちが参列しました。

 今、流れているのは、リズムを刻むウクレレのイントロに乗せて、IZのハミングで始まる「Over the Rainbow」です。

 いけません、目の前に虹がかかってきました。本当は別のテーマの予定でしたのに、急遽おしゃべりを変更します。

 最後に虹を見たのは、ホノルルのダウンタウンへと車を走らせている途中でした。左手の山肌をも虹色に染める大きな虹でした。「あっ!虹!」と叫ぶと、生まれて初めて虹を見た小さな少年が言いました。「ニジ? に・じ。きれい。」
 
 着いた先で、今しがた見たばかりの虹の話をすると、ハワイに住んで長い知人がさらりと言いました。「ここでは毎日のことですよ。」。そう、たしかにハワイは「虹の州」(State of Rainbow)と呼ばれて、車のナンバープレートにも虹がかかっています。

 その前に虹を見たのは、ニュージーランドのクイーンズタウンから、湖の間の山道を走っている時でした。左側の湖面からずっと遠くの湖面にまで、文字通り「bow」(弓)のように大きく、くっきりとかかる虹でした。

 クレタ島の山間の村々を訪ねた後で、高速道路を下り立った夕方のイラクリオンの町では、ぐるりと円を描くような虹が私たちを出迎えてくれました。

 旧約聖書の「創世記」の中では、40日40夜続いた洪水が地上の生き物を滅ぼしつくした後で、空に虹がかかります。それはノアとその子孫たちに対する神様からの約束でした。もう決してこのような大洪水は起こさないと言う、、、

 行く先々で虹に出会うたびに思います。
「これは神様からのプレゼント。きっといつかまたこの地に戻れることの約束。」と。

  Somewhere over the rainbow
Way up high
There’s a land I heard of
Once in a lullaby

Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true

空高く虹の向こうに子守唄で聞いた場所がある。
空青く虹の向こうに夢が叶う場所がある。

 CDの最後の曲が終わってちょっとした沈黙の後、IZが何かを呟いています。聞き取りにくい言葉を何度も聞いてみれば、こんなことを言っています。

「僕みたいに大きな人間は、たくさん酸素がいるんだ。歩く時にも、何をする時にも酸素がたくさんいるんだ。」

 そうしてIZは、私たちを虹のこちら側に残したままで、酸素のたくさんある虹の向こうに旅立ってしまいました。

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2011年06月21日

コキ蛙君との再会

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 4月のプエルト・リコですっかり仲良しになったコキ蛙君と思わぬところで再会しました。仲良しと言ったって、いえ、夜な夜な声を聞いていただけで残念ながらただの一度も実物には出会えませんでした。とは言え、プエルト・リコのアイドル的存在のこの小さな蛙君は、縫いぐるみになったり、Tシャツに描かれたり、キーホルダーになったりと、いたるところで大活躍です。私もこんな栓抜きマグネットとCDまで買ってしまいました。
 
 そんなコキ君がいったいどんな風に鳴くのか、そしてコキ君のCDとはいったいどんなものなのかは、こちらをご覧ください。http://blog.platies.co.jp/archives/20110417-1.html

 「面白いもので、ちょっと調べてみたら、植木鉢に入っていたらしいコキがプエルトリコからハワイ島に上陸し、瞬く間に繁殖し、今では騒音公害を引き起こしているらしいのです。同じコキ君の鳴き声が、ハワイ島では『うるさい』と嫌われて、『ハワイの不動産価値を下げ観光業界が頭を悩めている。』とまで言われているとは!あげくのはてには、2006年にはハワイ州政府がコキを法的に害虫として正式登録をして、さまざまな方法で『害虫駆除』を始めたというではありませんか!長旅の末にようやく安住の地を見つけたコキ君にとっては、たまったものではありません。」

 などと書きましたけれど、いやはや本当でした。ホノルル空港の一角にこんな「手配書」を見つけてしまったのですから。

「Declare it for Hawaii
Help prevent invasions before they occur by declaring all plants, produce, animals, sand, and snail, when traveling to Hawaii. These items require inspection.」
(全ての植物、農産物、動物、砂、かたつむりの持ち込みは、申告して検査を受けてください。)

 そして、入国を固く禁じられているものの筆頭として、可愛らしいコキ君の写真が貼られていたのです。「コキはしばしば鉢植えの植物の陰に隠れています。」などと写真まで添えられて。

 長々と書かれた説明書きを要約してみれば、

「エイリアンはハワイ本来の生態系を脅かし、農業や商業、人間の健康と生活に巨大な悪影響を与えます。外界から孤立した島々は特に影響を受けやすいのです。とりわけハワイは、交通の要であり、観光地であることから、十分な警戒が必要です。」

 おやまあ、ご覧の通り25セント硬貨ぐらいのミニ蛙のコキ君が指名手配のエイリアンです。属州(コモンウェルス)とは言え、プエルト・リコもアメリカの島、ハワイだってもちろんアメリカの島。それなのにこんなに扱いが違うのですから、ここはもう声を大にしてプエルト・リコのコキ君たちに言いたくなります。

「ゆめゆめ脱出などたくらんではいけませんよ。冒険したくなっても、そこでいい子にしてらっしゃい。」

 ところで、ハワイ空港の警告書の最後がふるっていました。

「あなたのペットの蛇やトカゲもハワイには連れてこないでください!」

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6月20日(月):マウイ島の宴会メニュー1
6月21日(火)予告:マウイ島の宴会メニュー2
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2011年06月20日

再びそれぞれの日常に

 
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 家族8人そろっての「ハワイ一つ屋根の下暮し」も終わって、またそれぞれの日常が始まりました。もうみんな出勤をして仕事を始めた頃でしょう。日に焼けた小さな少年も、今頃は保育園で、先生やお友だちに、お魚になった思い出を、舌足らずな言葉で一生懸命話しているのでしょうか。私も襟を正して、再び日常の生活へと踏み出します。

 水曜日に一人発ち、
 木曜日に一人発ったはずが、あろうことか逆戻りし
 金曜日に二人、
 土曜日の朝に一人、
 そして土曜日の午後に四人が発ち、
 窓一杯に海と椰子の木々が見えた賑やかな集いの部屋は、誰も居なくなりました。それでも、風は同じように吹き、朝日も夕日も同じように美しく空を染めているのでしょう。

 私はあいも変わらず失敗ばかり。
 
 あまりに爽やかな空気に、ランランと広いバルコニーに出ようとしたら網戸に突撃してしまいました。憐れな網戸は穴こそあきませんでしたが、風が吹くたびにヒラヒラ揺れる暖簾となりました。「ご、ごめんなさい。メガネをかけていなかったもので、、、それにあんまり外の景色がきれいだったものでつい、、、」などという言い訳は許されるはずもありません。

 「グランマのチャチンとる!」と言う小さな少年にカメラを持たせたら、床に落ちてレンズが引っ込まなくなってしまいました。以来、私のデジカメは無用の長物。

 ホノルルに住む娘の友人の家にバーベキューパーティーに呼ばれて、いつものようにノートにせっせとメモを取っていたら、床に置いたまま忘れて帰ってきてしまいました。人様から見れば、何が書いてあるかわからないようななぐり書きのノートでも、私にとっては記憶がつまった大事な宝物です。途方に暮れました。

 母娘の口喧嘩もありました。

 それでも、ヒラヒラ揺れる網戸は、それはそれで酔狂なもの。
 カメラはすぐに相棒のキッコサンが、「ナオミさん、ないと困るでしょう。私は大丈夫だから私のを使って」と、ずっと貸しっぱなしにしてくれました。
 大事なメモ帳は、たまたま翌日、バーべキューの主催者夫妻とゴルフでチームを組んだ息子が回収してきてくれました。
 娘との口喧嘩だって、一緒にいるからできる幸せです。

 日常生活が始まった最初の朝なのに、私の耳には昨日までのみんなの声の余韻が万華鏡のようにグルグルとまわっています。「グランマぁ!」「ママぁ!」「ナオミさぁん!」、、、、、

 グランパとジイジは来られなくとも、小さな少年のまわりには、パパとママと、チットさんとトールちゃんと、ヨンミーとハーちゃん、そして失敗ばかりのドジグランマがいました。みんなが健康だったからこそできたこと。どんなにありがたいことでしょう。

 ところで、木曜日に発つはずが、7時間も空港で待たされたあげく出戻りして、結局は土曜日組になった一人。いったい何が起こったのかと言えば、、、、

 前の乗客が便器に紙おむつを流したために、全てのトイレが使えなくなってしまったのが原因とのこと。荷物も預け、搭乗を待っていた全員がホテルに振り分けられ、ミールクーポンを渡されて、翌日以降の空席を待つ羽目となりました。私たちのハーちゃんは、町なかのホテルに行く代わりにしっかりタクシー券を握って出戻りしました。そして紙おむつがポンと与えてくれた予想外の時間を、覚悟を決めて一緒に楽しむこととなりました。

 網戸も、デジカメも、ノートも、多少の口喧嘩も、紙おむつ事件だって、いったん起きてしまったことは元には戻せません。ならば、潔くあきらめて、後を引かずに過ごすことです。おおかたのことは何とかなるものですから。などと言いながら、私は自分の迂闊さをかなり反省しています。

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6月20日(月)予告:マウイ島の宴会メニュー1
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2011年06月18日

誰でもみんな今日が記念日〜一期一会の素敵なルアウ(宴会)

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 マウイ島の西、ラハイナ・キャナリー・モールの波打ち際に続く芝生の上で、毎晩開催されているのが、「オールド・ラハイナ・ルアウ」です。「ルアウ」とは、本来は「宴会」という意味。

 どうせ観光客用のお決まりのショーでしょう?などと思うなかれ。これはロケーションといい、演出といい、なかなかのものです。まだ明るいうちに門戸を開けられた空間には、「宴会」用のテーブルが、ステージとなる円形の芝生を取り囲んでいます。ウェルカムドリンクを手に、蘭のレイを首にかけたゲストたちが、次々とテーブルに案内をされます。

 あちこちで音楽が奏でられる宴会場には、小さな人の輪がたくさん見られます。地面にペタンと腰を下ろしてプルメリアの花の髪飾り作りを習う人たち、進行形でできあがっていく木彫りを取り囲む人たち、こんもりと盛られた土の下のかまどで、葉っぱにくるまれた豚が蒸し焼きにされていく様を見る人たち、、、、、

 水平線をオレンジ色に染めた太陽が姿を沈ませ、周囲の暗さに目が慣れ始めた頃、松明が灯され、歌と踊りの祭典が始まります。ビュッフェテーブルに並べられた数えきれないお皿は、伝統的な料理で美しく彩られます。バーとテーブルの間を行き来して、笑みとジョークを絶やさずに飲み物を運ぶのは、黄色い腰布を巻いただけの男たちです。腕も胸もお腹も、見事なまでに鍛え上げた筋肉と、美しい刺青で覆われています。

 ショーを取り仕切った、髪も姿も声までも美しい女人が言いました。

「この中にお誕生日の方はいますか?」

 すると、小さなどよめきの中から何人かの人たちが立ち上がりました。

「この中に結婚記念日の方はいますか?」

 するとまた、何組かのカップルが立ち上がりました。

「この中に記念日の方はいますか?幸せな記念日ならどんな記念日でもかまいません。」

 するとまた、何人もの人たちが立ち上がりました。

「今立ち上がった皆様、どうぞ海辺にお集まりください。そして特別な今日の日を祝して踊ってください。」

 音楽が奏でられ始め、集まった人たちが、砂の上で腕を組んで踊り始めます。

「お誕生日や記念日の人たちに『オメデトウ』と言いたい人はいますか?」

 すると一人立ち、二人立ち、三人、四人、、、、と、あちこちでたくさんの人たちが立ち上がり、この日、この場所で初めて会った人たちを祝って踊りの輪に加わりました。

 踊りの輪が次々に広がって、海風がサワサワと私たちの髪を揺らし、踊らない人たちの心も躍って、、、、そんな私たちを、まだ満月には届かないながらもふっくらとした月が照らします。

 お誕生日の人も、結婚記念日の人も、なんだかわからないけれど、とにかく記念日を迎えた人も、そして知らない人たちのそんな特別な日を一緒に祝いたい人も、みんなが一緒に優しい気持ちになった魔法の夜、一期一会の素敵な「ルアウ」(宴会)でした。

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6月13日(月):行列のできるヌードルレストラン@マウイ
6月15日(水):行列のできる島のレストランのオマンジュウ@マウイ
6月17日(金):いったいこれは何でしょう?@オアフ
6月18日(土):外はカリッと、中はモチモチのマラサダ注意報
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2011年06月17日

完全無欠な遊び〜オアフ3

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 マウイ最後の日、数々の伝説に彩られるイアオ渓谷の緑の中を散策しました。途中、滝壺で嬌声を上げて遊ぶ子供たちの姿を見て、隣りを歩いていた娘がポツリと言いました。

「子どもの頃、ポナペでこうして遊んでた。」

 ポナペとはミクロネシア、東カロリン群島のひとつ。北緯7度の、花にあふれた美しい熱帯の島です。当時は、国連の信託統治領でしたが、今では、トラック、ヤップ、コスラエと共に、ミクロネシア連邦を形成しています。当時私たちは深い縁があって、しばしばこの島での短い暮しを繰り返していました。

 すっかり大人になった娘が口にした「遊んでた」という言葉に、なぜか妙にカサコソと心の奥をくすぐられたまま、私は飛行機に乗りました。そしてずっと「遊ぶ」という言葉について考えていました。

 今日も朝からよく晴れて、爽やかな風が木々の葉を揺らす素晴らしい日となりました。海もプールも水面がキラキラと輝いています。いつまでたっても水から出ようとしない小さな少年のまわりでは、子どもたちが、追いかけっこをしたり、水をかけあったり、飛んだり跳ねたり、もぐったり、飛び込んだり、逆立ちをしたり、、、、

 誰一人として憂い顔をしている子などいやしません。みんな単純に、流れる時を楽しんでいます。うらやましいぐらい純粋に遊んでいます。

 疲れたからそろそろ上がろうかとか、
 これ以上いたら、次の予定に差し障るとか、
 こんなことをしてる場合じゃないとか、
 ああ、あれをいったいどうしたらいいんだろうとか、

 何であの人はいつもああなんだろう、と溜息をついたり、
 明日までに間に合うだろうかと焦ったり、
 水から出たらやらねばならないことを数えたり、

 来年の今頃はいったいどうなっているんだろうと哲学的になったり、
 こんな幸せが続くはずがないと懐疑的になったり、

 そんなこと、彼らにとっては知ったことではないのに、私たち大人といったらいったいどうでしょう。いつどこにいようとも、たとえそれが南国の楽園であったって、諸々の憂いを隠し持ったままでしか「遊び」を手に入れることができません。目の前の子どもたちが、完全無欠の形でらくらくと手にしている「遊び」は、いつしか私たちの手の届かない所に行ってしまいました。もうそこに戻ることはできません。

 大学に入ってすぐの英詩の授業は、ウィリアム・ブレークの詩集「Songs of Innocence」(無垢のうた)でした。一番初めに読まされた詩ばかりは、今でも深く記憶に刻まれていて、スラスラと口をついて出てきます。「Infant Joy」(子どもの喜び)というたった2節の短い詩でした。前半はたしかこんな言葉です。

“I have no name:
I am but two days old.”
What shall I call thee:
“I happy am,
Joy is my name.”
Sweet joy befall thee!

(私は名前がありません。まだ生まれて2日です。私は幸せです。喜びが私の名前です。)

 知ってしまった私たちは、もう二度と「Innocence」(無垢)には戻れません。もう決して目の前の子どもたちのように「完全無欠な遊び」をすることはできません。そして悲しいのは、誰も子どものままではいられないことです。憂いを知らない小さな少年だって、知恵と経験を身に付ければつけるほど、「Innocence」から遠くなっていくのです。人間というのは、時としてなんだか随分寂しいものです。

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6月13日(月):行列のできるヌードルレストラン@マウイ
6月15日(水):行列のできる島のレストランのオマンジュウ@マウイ
6月17日(金):いったいこれは何でしょう?@オアフ
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2011年06月16日

ALOHA for JAPAN〜心が一つになった日〜オアフ2

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 もともとがいわゆるブランドショップとかブランド品とは縁もなく、昨秋から冬にかけてのミラノ暮しの間でも、一度は「モンテ・ナポリターナ通り」を興味津々歩いてはみたものの、文字通り歩いただけで終わり。

 そんな私が、今日は家族たちに付き合って、郊外の大きなアウトレットに行くこととなりました。名だたる店に囲まれた広い空間は、さほど人出があるわけでもなく、青い空の下を歩きまわるだけで、心が伸びやかになるのがわかります。もちろん今日も文字通り歩きまわっただけです(笑)。

 帰ってから娘たちが買ってきた物を見せてもらったら、こんなTシャツがありました。フランスのブランド「BCBGMAXAZRIA」(ビーシービージー・マックス・アズリア)のものです。日本の地図が描かれて、ハートの中で蝶々が飛んだ後に「hope」という4文字が書かれています。シンプルですが、優しさが伝わってきます。

 マウイへの行き帰りに乗ったハワイアン航空の、小さな椅子ポケットに入っていた機内誌にも、「ALOHA for JAPAN〜心が一つになった日」と題する12ページもの特集記事がありました。心を打つ美しい写真がたくさん掲載されています。目を閉じてひたすら祈る人たち、あざやかな色のレイをつけて日本のためにギターを弾くバンダナの男性、「がんばれ日本」と言う文字を背中に、人混みの中で立ち上がる赤いTシャツの男たち、被災者のために黙々と花輪を作る人たち、、、、、、

 官民一体となったキャンペーン「アロハ・フォー・ジャパン」は、ハワイ州内の銀行275支店を窓口とする募金運動から始まりました。ワイキキのホテルの芝生広場では、4月10日、地元ミュージシャンと米本土のスターを集めて「コクア・フォー・ジャパン」という募金コンサートが開かれました。赤いTシャツを着たボランティアたちが、折鶴を吊るした網を持って、聴衆の間をまわりながら義援金を募り、総額160万ドルを集めたと言います。160万ドルといえば、いくら円高でも、日本円にして約1億3千万円です。

 これはほんの序の口で、他にもさまざまなイベントが開催されてきました。米国赤十字ハワイ支部によれば、東日本大震災のための寄付額は、すでにして、2005年にニューオリンズを襲ったハリケーン「カトリーナ」を上回ったということです。

「まだ景気後退から立ち直っていない時期にこれだけの反応があることは、日本に向けたハワイの人の気持ちがどれほど強いかを、明確に物語っています。」

 記事によれば、「アロハ・フォー・ジャパン」が様々な募金活動を通じて5月半ばまでに600万ドル以上を集める間、独立系の団体やグループも活発に支援活動を展開していたとのこと。

 たとえば、4月9日の夜には、東北大学病院の支援を目的として「ウィズ・アロハ」がホノルル市内のホテルで開かれ、何と2300人もの人が出席、15万ドルを超える寄付金の全額が病院に贈られたそうです。

 そんな記事でハワイアンスピリットを紹介する「ハワイアン航空」もまた、独自の企画で20万ドル以上を集めました。記事の最後はこんな言葉で結ばれています。

「19世紀に日本人移民が初めて渡航して以来、ハワイと日本の絆は形を変えながら、絶えることなく続いてきた。チャリティーウォークで1セントずつ募金した小学校の生徒たちから、数万ドル単位の寄付をした企業まで、『海の向こうの兄弟と姉妹たち』に向けた支援活動の参加者は幅広いが、『アロハ』(愛)と『コクア』(協力)の精神に基づくそれぞれの想いとメッセージは共通している。」

 同じアメリカでも太平洋を越えてずっと東の端、ニューハンプシャー州の片田舎で、つぶれかけた洗濯屋さんが貼り出した「Bottle Drive for Japan」といい(http://blog.platies.co.jp/article/44712410.html)、ハワイの人たちのこうした心意気と言い、小さなものから大きなものまで、いろいろな所に、私たちの国を思う人たちがいます。それらの想いを忘れずにいること、それが今の私たちにできる最初の恩返しでしょうか。

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6月13日(月):行列のできるヌードルレストラン@マウイ
6月15日(水):行列のできる島のレストランのオマンジュウ@マウイ
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2011年06月15日

コオリナで始まった期限付き共同生活の心地良さ〜オアフ1

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 昨日夕方の飛行機で、マウイからオアフ島に移りました。そして、家族がまた3人増えて、ホノルル郊外、コオリナのコンドミニアムで、ますます賑やかな「一つ屋根の下暮らし」をしています。ドン(首領)は、もちろん3歳のリトルボーイです。

 今、こちらは水曜日に日付が変わったばかりの午前1時。リトルボーイを筆頭に5人はすでにそれぞれの部屋で眠りに就いて、残る3人は、居間の8人がけの大きなテーブルで各自のPCに向かい合っては指を動かし、同時に口も動かしています。私の左隣りは長女、真向かいは次女です。

 早朝から隣接するゴルフ場に出かける者もいれば、目星をつけていた場所にひとり向かう者、プールサイドで過ごす者、泳ぐ者、、、、8人がその都度、アメーバーのように形を変えて、くっついたり離れたりしながらも、安心して共同生活ができる心地よさ。

 コアの部分はしっかり集まって、共に同じ時間を過ごします。ミニバンのハンドルを握るのは息子。その右はオトーサン。二列目には二人の娘。一番後ろの列にはオカーサンと私ともう一人の娘、そして間にすっぽりはまったリトルボーイが、時速70マイルでハイウェイを走る心地よさ。

 家に戻れば、誰が言うでもなく分担作業が始まります。買い物を冷蔵庫に仕分けする人、料理を始める人、片付ける人、掃除をする人、リトルボーイをもう一度プールに連れて行く人、、、、、、そんな阿吽の呼吸の心地よさ。

 予期せぬできごとがあったって、一人ならオロオロとしてしまうことも、一緒にオロオロしているうちに何となく切り抜けられます。

 昨日の出発間際のマウイでもちょっとしたアクシデントがありました。空港に向かう途中でランチに立ち寄ったモールで、突然、車のリモートキーが効かなくなって、中に入れなくなってしまったのです。レンタカーの連絡先が書かれた紙も車の中です。もちろん荷物だって全部。時間は刻々と過ぎて行きます。飛行機が出る時間は刻々と迫ってきます。

 もしやと車のそばでリモートキーを押し続ける人、スターバックスを見つけてフリーWi-Fiでともかく連絡先のレンタカーオフィスの電話番号を調べる人、公衆電話用に25セント硬貨をかき集める人、電話をかける人、メモをとる人、そんな人たちの間を行ったり来たりしながらみんなの緊張をほぐそうと努める人、、、、

 結局、非常用の隠しキーが見つかって、私たちを乗せたB717は無事ホノルルへと向かいました。こんな時のチームワークの心地よさ。

 機械ものが大好きなリトルボーイに、早速、大事なデジカメを壊されてしまいましたし、パソコンのキーボードを早打ちされて、わけもわからず大きな画面になってしまって困ってますけれど(笑)、それらをみんな合わせたって、家族せいぞろいの「一つ屋根の下生活」は、嬉しい時間が過ぎていきます。期限付きの特別な時間だと思えばなおさらです。
 
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2011年06月13日

動く地球と共に〜マウイ2

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 集団行動をしていると、賑やかで楽しくて楽なのですけれど、なかなか一人になる時間がありません。

どのくらい賑やかかと言えば、目下一つ屋根の下に男性1人、女性が4名。
どのくらい楽しいかと言えば、一日中一緒にいても笑い声ばかり。
どのくらい楽かと言えば、今日の計画も運転もナビも全ておまかせ。

 かくして目下、日本では月曜日の夜8時でも、こちらは日曜日の深夜1時です。もうみんな、それぞれの部屋のお風呂にゆっくり入って、ちょっとおしゃべりに集合して、またそれぞれの部屋に入ったところです。

 私一人が、この物音1つしない大きな居間で、カタカタとキーボードを叩いています。とは言え、昼間よく動いて眠くなりました。ごくごく手短かに本日のメインイベントについて御報告してから、私も眠ります。

 ハレアカラは火口の底に大小11個の火口丘を持つ火山です。高さは3千メートルと、富士山より776メートルしか低くないこの山に、驚いたことにてっぺんまで、完璧に舗装道路が続いています。

 ハレアカラとはハワイ語で「太陽の家」という意味。
 午前3時に出て朝日を眺めるか、午後4時に出て夕日を眺めるか、、、、
 私たちは当然、楽な方を選びました。
 どちらですかって? もちろん夕日です。

 どんな言葉でも語ることはできないほどの、壮大な地球のパノラマ。
 厚い雲海が色づき始め、雲の合間から眩しい光が射し出でて、
白い雲を茜色に染めていき、沈む太陽は、最後の一射しまでをも惜しげもなく、神々しいほどの神聖さで私たちに投げかけて、、、、、

 地球が動いていること、
 私たちと同じように動き呼吸をしているということ、
 を、圧倒的な威力で見せつけて、
 私たち、そこに寒さで震えながら立つ者たちの無力さを、いやというほど感じさせて、
 半時間のページェントが幕を閉じました。

 明日の朝には、反対側の空で同じように華やかな舞台をつとめ、また夕方には今夜と同じように幾重にも積み重なった雲をかしづかせるのでしょう。私たち人間の世界に何が起ころうと、永遠に繰り返される偉大なリフレインです。

 ぐちゃぐちゃ小さなことで心を煩わせている自分が、全くもって、情けないほどに滑稽に思えます。今日あのハレアカラの頂上に共に立っていた人たちは、どこから来た人であろうとも、おそらくみな同じ思いでいたに違いありません。

 「地球はこうして動いている、何があっても。
 明日の自分は、今日までの自分とは違うかもしれない。」と。
 
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6月13日(月):行列のできるヌードルレストラン@マウイ
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2011年06月12日

やっぱりロマンでしょうかねえ〜マウイ1

 
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 6〜7時間のフライトタイム、それなのに時差が15時間と言うのは長短それぞれ。まずは長の方から言えば、最初の日がやけに長くなって、まるで宝くじが当たったような気になります。

 たとえば、私が乗ったデルタ航空646便は成田発21時15分。17半頃まで掃除をしたり、荷造りをしたり、仕事を片付けることができます。最近では事前にインターネットで搭乗券を取れますから、「印刷して持っていけば、カウンターでは預ける荷物を渡すだけ。随分便利になったものです。

 けれども、その反面、簡単過ぎて「ロマン」というものがなくなってしまいました。ロマン?ちょっとレトロな言葉ですよね。

 ある時、珍しく大きな夢を見たことがありました。何十もの候補があった中から私たちのチームが最後の2つに残り、最終選考のプレゼンのためにセントルイスへ飛んだ時のことです。4人の仲間は私のほかに男が3人。成功を願って杯を乾した前夜、プロジェクトの総元締めとも言える最年長のリーダーに、私たちは聞きました。「社長はどうして、ここに私たちといるのですか?」

 たかが私たちの夢のために、なぜ大きなリスクをおかしてまで応援してくれようとするのか、その理由を聞きたかったのです。すると元々寡黙な彼が、ポツリと言いました。

「やっぱりロマンでしょうかねえ。」

 何となくキツネにつままれたような気がしながらも、「そうか、ロマンか、なるほど。」と変に納得してしまった我々でした。

 昔の飛行機の旅には、そんな「ロマン」がありました。まるで冒険旅行に出かけるようにワクワクと胸躍る感じがありました。飛行機切符だって航空会社のマークが入った小冊子のようなものでした。それが何たって今では、自分のPCでプリントアウトする紙切れ一枚です。私なんて昨日急いで印刷したら、裏が1週間分の料理の献立でした。これじゃあロマンも何もない日常です(笑)。

 長い一日は、長い分だけくたびれます。土曜日の21時15分に飛びたった飛行機がホノルルに着いたのは、時間が巻き戻されて、何と同じ土曜日の朝9時25分。それからマウイへと飛ぶB717の小さな飛行機を待ちました。それなのにまだ、お昼にマウイに着いてからあり余るぐらいにたっぷりと時間があります。なかなか日が暮れてくれません。

 行列のできるヌードル店で食事をし、途中のインテリアの店でたくさん買い物をし、スーパーへ寄り、コンドミニアムに着き、少し休んでから今度はビーチでのディナーショーへと繰り出しました。帰りにはまたスーパーでビールを買い込み、明日の朝御飯の買い物をして、ブラブラ帰ったところでまだ10時です。

 ここは大きな居間と、大きなキッチン、それぞれにトイレも浴室もついた大きなベッドルームが3室。それらがぐるりと広いバルコニーに囲まれています。開け放った窓からは木々に囲まれたプールが見えます。このコンドミニアムで、遅れて仲間入りをした私を含めて、大人たち5人が過ごしています。ホノルルのコンドにいるもう一家族とは月曜日に合流します。大家族旅行です。

 ところで、先月、ニューハンプシャー州で借りた車のナンバープレートには、「LIVE FREE OR DIE (自由か死か)」と言うたいそうな言葉が書かれていました。アメリカは州によってさまざまなデザインのプレートが使われています。白いハナミズキに赤い鳥(カーディナル)が描かれているものもあれば、ブルークラブと呼ばれる青い蟹がハサミを振りかざしているものだってあります。

 ここハワイ州は虹です。せっかく写真を撮ったのにうまく映っていませんでしたが、美しい虹がナンバーの上にかかっています。そんな「ロマン」あふれるプレートをつけて走っていたら、本物の大きな虹に出会いました。海辺のディナーショーでは、生演奏の合間に、大好きなIZの「Over the Rainbow」が何度も流れました。

 アメリカ50州の中でも、ここの「ロマン」はやっぱり飛び抜けています。
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6月10日(金):6月10日の「アシエットの芸術」
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2011年06月10日

いかに何でも、もうちょっとは人並みに

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 2〜3日前の新聞の投書欄に、北海道に住む70歳の女性がこんなことを書いていました。

「群馬県の実家に帰った時のことだ。節電の影響で駅のエスカレーターが止まっていた。重たいバッグを持って長い階段を上るのはきつく、半分ほどで息切れした。立ち止まっていると、先に上っていた若い男性が下りてきて『荷物持ちます』と言って一緒に上がってくれた。」

 これを読んで思い出したのは数年前のローマでの出来事です。大きなスーツケースとキャリーバッグを持って、長い石段を一段ずつ引きずり上げては溜息をついていた時、背後から近づいてきたジーンズ姿の青年が、イタリア語で何かを言うなり、突然、私の青いスーツケースを奪うように持って、急ぎ足で階段を上っていくではありませんか。

 その時の自分を思い出すと、今でも恥ずかしくて赤面するようです。私は、てっきりその青年が私のスーツケースを略奪したと思ったのです。追いかけるにも、もう1つの小さいバッグが邪魔をします。「泥棒!」と叫びたくても、イタリア語がわかりません。途方に暮れました。

 すると、トントンと一番上まで上がった青年は、私がたどり着くまで辛抱強く私を待っているのです。息を切らしながらようやく階段を上りきると、青年がまた一言二言何かを言って、私の手にスーツケースを戻しました。そして風のように走り去って行きました。せめて「グラッチェ(ありがとう)」ぐらいは言わせてほしかったのに。

 先日、友人とファミレスでランチをしていた時のこと、私がハンドバッグと書類ケースを椅子の上に置いたまま、ドリンクバーへ立とうとしたら、注意をされました。「盗られるわよ。」

 そんな友はしっかりと全ての荷物をかかえたまま飲み物を取りに行きます。私は言います。「大丈夫ですよ。みんな楽しそうに食事をしている家族連ればかりじゃありませんか。」

 そして一昨日の水曜日、仕事の打ち合わせがあって、メトロの階段を上がってすぐのカフェでハルさんと待ち合わせをしました。先に着いていたハルさんは、私が席にすわるなり、

「ナオミさん、私、トイレ行ってきますから、その間にカウンターに行ってご自分の飲み物を注文してください。」
「いえ、ハルさんがトイレから戻るまで座って荷物の番人をしてます。」
「大丈夫ですよ。どうぞ荷物はそのままで注文に立ってください。」

 人によってリスク感覚はまちまちです。痛い思いをした経験が防衛に向かわせることもあるでしょう。「人を見たら泥棒と思え」という格言だってあるくらいです。でも、どちらが楽かと言えば、たぶんハルさんのようにあっけらかんとしている方かもしれません。

かく言う私は、落し物、失くし物、盗られ物ならば、かなりの実績を誇れます(笑)。そして、そんな経験を「ああ、この程度ですんでよかった」とか、「ああ、身が無事でよかった」とか感謝をしながら、片っ端から忘れていくのです。困ったものです。

 ですから、人の何倍も失態を繰り返していると言うのに、相変わらず、「大丈夫、みんな楽しく食事をしている家族連れではないですか。」などと呆けたことを言い、バッグを席に残したままドリンクバーに行ったりするのです。

 「ママ、またあ?」とか、「君、またやったの?」などと家族にあきれられながらも、それでも懲りないのです。本当に困ったものです。あのローマでの出来事以来、人を見ても泥棒に見えなくなってしまったんですから。

 昨日、仕事が終わってから、六本木の町を歩きました。芋洗坂で、こんなにたくさんの花を見つけました。奥まった所には小さな神社もありました。夢中になって写真を撮っていてふと気づいたら、バッグを道に置いたまま。やっぱりちょっとやそっとじゃ治りそうもないですね、このどうしようもなく貧しい危機管理能力!

 明日からハワイで過ごします。まずはマウイに飛びます。
 ますます楽天的になってしまいそうですが、いけません、いけません、もうちょっとは人並みに気を引き締めて、用心、用心。

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6月10日(金):6月10日の「アシエットの芸術」
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2011年06月09日

「The Mount」で起こった「予想もしなかったこと」

 1度では終わり切らずに、3日目の「エディス・ワートン」となりました。いよいよこれでファイナルです。

 さて、アメリカはマサチューセッツ州レノックスの「The Mount」で起こった「予想もしなかったこと」とは?

 同じ東海岸でも、マサチューセッツの春はワシントンよりだいぶ遅れてやってきます。緯度や経度がちょっと違うだけで、木々の色も姿も変わります。メープルの木々が薄緑色の煙るような花を垂らし、景色がふわりと柔らかく霞んでいます。風はまだ冷たく、薄手のコートが手ばなせません。

 そんな5月の初めは、爛漫の春を前にしたオフシーズンです。小さな美術館などは閉まっていることも多いのです。それなのに、また林の中の道に車を走らせてしまいました。目的地はエディス・ワートンというひとりの女性が住んでいた邸宅、「The Mount」です。

 着いてみれば、門は固く閉ざされ、作業用の車ばかりが並んでいます。隙間から見えるのは工具箱を持って忙しそうに出入りする人たちと、手入れをする庭師たち。無人のチケットボックスには、「Open on May 10」という表示。早すぎた来訪者は明らかに邪魔者です。あきらめて帰ろうとすると、一人の作業服の男性が近づいてきました。
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「こんな状態ですがご覧になりますか?」

 そして、門を開け、突然の幸運に面食らう私たちを家の中に招き入れてくれたのです。ジョセフというその男性は、丁寧に一部屋一部屋を見せてまわります。
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 何台ものPCが置かれている台所には、野原から摘んできた黄色の水仙がいけられ、別の隅ではPCに向かって仕事をしている人がいます。RIMG9263.JPGRIMG9264.JPG

ハシゴをよけながら、どんどんと奥へ進み二階へと上がれば、美しいダイニングルームが控えています。ジョセフは丁寧に説明をしながら案内をし続けます。そのイキイキした表情と、何をたずねてもよどみなく答えられる豊富な知識からして、おそらくこの屋敷を熟知し、ここをこよなく愛する者に違いありません。
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 2階から3階への上がり口にも、3階から屋根裏部屋へと続く入り口にも、「Do Not Enter」とチェーンがかけられているというのに、それをヒョイと外して、「せっかくなんだからこちも見てください。ふだんは公開していない場所です。」と言いながら、どんどんと私たちの前を上っていきます。
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 屋根裏部屋の小窓から眺める景色はどこまでも広がって、庭も林も池も春霞の中に、静かに佇んでいます。
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「気をつけて下りてくださいよ。」と、後を振り向きながら、ジョセフは次々と非公開の場所を見せ続けます。最後に下り立ったのは、段ボールの箱が山積みになったギフトショップでした。1週間後のオープンに向けて、3人の女性が整理に大わらわです。
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 おずおずと、「エディス・ワートンについて知りたいのですが、どんな本がいいでしょうか?」とたずねると、ガサゴソといくつかの箱を探って取り出してきたのが、この本でした。
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「お持ちになりますか?」
「はい、買えるのでしょうか?」
「レジはまだ使えませんけれど、よろしければどうぞ。20ドルです。」

 ジョセフは私たちを車まで送ってくれると、せめて入場料を払わせてくれという言葉には耳も貸さずに、こんなことを言いました。

「まだオープンもしてない場所の入場料をいただくなんて、できるわけありませんよ。この家を愛しながらも帰ることのできなかったエディス・ワートンのことを思い出の中に留めてくださるだけで十分です。こんなゴタゴタのほこりだらけのところをお見せしてしまって失礼しました。」

 これが、「予想もしなかったこと」の顛末です。

 エンジンをかけて、もと来た道を逆にたどれば、いつの間にか白亜の邸宅も広大な庭園も、働く人たちの姿も木々の向こうに閉ざされます。これらの写真が残っていなければ、私は「The Mount」と言う白昼夢を見ていたと思ったことでしょう。あるいははかなく消えてしまった蜃気楼を、、、、、

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6月7日(火):カヌーに乗って運ばれたクマラ
6月9日(木): 初めてなのに懐かしいサウスシーパンプキンスープ
6月10日(金)予定:これぞフュージョン〜スイートチリサーモンON CHASOBA


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2011年06月08日

エディス・ワートンという女性 その2

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 昨夜の続きです。

 エディス・ワートンとはいったいどんな女性?
そして、マサチューセッツ州レノックスの「The Mount」で起こった「予想もしなかったこと」とは?

 まずは簡単にその生涯をたどってみましょう。エディスは1862年、ニューヨークの上流階級の家庭に生まれました。どのくらいに上流かと言えば、お金を稼ぐための労働とは無縁なぐらいに、とでも言ったらいいでしょうか。相続税もなかった時代です。エディスは生まれながらにして、生涯困らぬほどの富をまとっていました。

 エディスは4才から10才までの6年間を両親や、二人の兄弟、そして召使たちと共に、ヨーロッパの家で暮らします。ローマに1年、パリに2年、ロンドンに2年、そして残る1年は旅をしながら。

 エディスには2つの秀でた天分がありました。ひとつは読むことであり、もうひとつは書くことでした。最初の小説を書いたのは15歳でした。そんなエディスを、母親は「この娘はこのまま結婚をしないのではないか」と心配をし、半ば無理やりに同じ階級に属する青年との結婚を進めます。エディスが23歳の時でした。

 ひそかに愛を育んでいた恋人は、弁護士として働くためにワシントンへと去って、取り残されたエディスは、母がお膳立てをした結婚に従いました。けれども、夫となった人は、裕福ではあっても彼女ほどではなく、裕福ではあっても知的とは言い難い人でした。背丈も彼女より低かったのです。

 そんな風に始まった結婚生活が幸せなはずもありません。当時、彼女には何もしなくても、父親の財産から年30万ドルが与えられていました。この時代の30万ドルと言ったら、いったいどれほどの価値があったことでしょう。エディスが、夫を必要とする理由はどこにもありませんでした。彼女の心は知的な男友だちとの交友に向かっていきます。

 書く小説が次々と世の中に受け容れられて、エディス・ワートンの名は次第に人々の間に知られ始めます。大作家のヘンリー・ジェームスと親交と友情を深めていったのもこの頃でした。

 夫のもとを離れてヨーロッパで暮すことを好み、「The Mount」の屋敷に戻るのは夏だけとなりました。もっとも、ヨーロッパの他にも、ニューヨークにも、ロードアイランドにも家があったのですから、それも当然の成り行きだったかもしれません。

 一方、残された夫の方は病気がちになり、温泉療法に頼りながら、しじゅう不満をこぼし始めます。これもまた当然の成り行きでしょう。

 とうとうエディスは、3エーカーの庭と、42の部屋を持つ「The Mount」を夫に譲り渡します。そしてその名目上の主となった夫は、彼女がヨーロッパにいる間に、彼女に一言の相談をすることもなくこの美しい庭と屋敷を売り渡してしまったのです。

 これを機に二人は正式に別れることとなりました。加えて言えば、これもまた当然の成り行きでしょう。以来、エディスの生活の拠点はパリとなり、第一次世界大戦を迎えます。スペインから戻ったエディスは今度はチャリティー活動に身を投じ始めました。

 後に映画化された小説「エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事」が書かれたのが、大戦後の1920年。この小説により彼女の名は誰ひとり知らぬ者もないほどに知れ渡ることになります。

 彼女の最大の理解者でもあったヘンリー・ジェームスが亡くなり、
 フランス政府から勲章を与えられ、
 エール大学からは名誉学位を授与されて、
 良いことも悪いこともひっくるめて時が流れて、、、、、

 1937年、エディスは心臓発作のためパリで亡くなります。エディス・ワートン、75歳のことでした。業績をも、富をも託す子どももないままに、彼女が愛した「The Mount」に帰ることもなく、、、

 これが、Wooldridgeという作家によって書かれた、彼女の生涯についての本「エディス・ワートンの勇敢なる逃亡(The Brave Escape of Edith Wharton)」を流し読みして知ったことの概略です。まだまだ見逃している大切な部分がたくさんあります。いつか余裕ができたら、丁寧に読んでみたい本です。

 この本の帯の最後にこんな言葉が書かれています。

『The story of her life is a remarkable record of passion, courage, and change.』
(彼女の生涯の物語は、情熱と勇気と変革の素晴らしい記録だ。)

 さて、私の生涯の物語は、いったい何と何と何の記録になるのでしょうか?
 そして、皆さんの生涯の物語は?

 またしても長くなり過ぎました。マサチューセッツ州レノックスの「The Mount」で起こった「予想もしなかったこと」になかなか行き着けません。ごめんなさい。明日は必ず!!!

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2011年06月07日

エディス・ワートンという女性 その1

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 ニューイングランドと言えば、アメリカの歴史が始まった所。1620年、メイフラワー号でイギリスからアメリカ北東部へと渡ってきたピューリタンたちのことを、高校の世界史の授業で習ったことを思いだします。

 大学に入ってからは、英文科だったせいもあって、ニューイングランドを舞台とした古い小説を随分読まされました。たとえば、ホーソンの「緋文字(The Scarlet Letter)、メルヴィルの「白鯨(Moby-Dick; or, the Whale)。よくわかりもしないくせに、背伸びをして、ニューイングランドという言葉の響きに酔っていた時代です。

 そんなニューイングランドは6つの州からなっています。コネティカット、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、メイン、そしてロードアイランド。
5月初めの旅では、ニューハンプシャーから、バーモントを抜けて、マサチューセッツへと入りました。

 そのマサチューセッツの西部、バークシャーと呼ばれる地方の、レノックス(LENOX)という小さな町の外れに、ソレがあります。ボストン交響楽団の夏の拠点であり、夏の音楽祭で知られたタングルウッドへの入り口を左に見て、林の中の道をしばらく進んだ所です。

 3エーカー、坪にしておよそ3700坪の広大な敷地に、42もの部屋を持つ白亜の屋敷が建っているのです。それが、エディス・ワートン(Edith Wharton)という、あらゆる面で飛びぬけた一人の女性の住まいです。いえ、住まいでした。生まれながらに富をまとい、4才から10才までの6年間をヨーロッパで暮らしたエディスが、毎年夏を過ごす場所が、このレノックスの、「The Mount」と呼ばれる館でした。

 私たちがここを訪れたのは、遅い春に霞む5月3日のことでした。入り口は閉ざされ、中では大工や左官たちが家を出入りし、広大な庭園では庭師たちが、目の前にせまった「シーズン」を前に忙しく働いているのが見えました。こんな時期に、わざわざやってくる酔狂な人間などいるはずもありません。私たちだって、もし閉まっていることを知っていたなら、行きはしなかったでしょう。

 ところが、ここで、予想もしないことが起こったのです。思わせぶりを承知の上で、今晩はここで終わり。明日また続けます。

 ずっと心の中に重くひっかかっていた本を、あれから1ヶ月以上もたった今日、ようやく、ページを繰ることができました。「The Brave Escape of Edith Wharton」というエディスの伝記です。知も財も、全てを所有していたエディスの生涯を少しばかり知りました。

それは私に、再びドリス・デュークを思わせ、 デュポン家の歴史を思わせました。
http://blog.platies.co.jp/article/29345826.html
http://blog.platies.co.jp/article/31093391.html

 ところで、作家としてたくさんの著作を残したエディスは、こんな「書き方」をしていたとのこと。こればかりは本当にうらやましくて仕方ありません。私の理想、私の究極の夢です。(笑)

「Edith Wharton staged publicity photos to give the impression she wrote at a desk, but she really did most of her writing in bed:
She would have her writing board perilously furnished with an ink-pot on her knee, the dog of the moment under her left elbow and the bed strewn with correspondence, newspapers and books.

 表向きの写真では、机に向かって書いているようになっているけれど、実はほとんどの著作をエディスはベッドで書いていた。インク瓶を膝の上に置いて、左腕の下には愛犬。ベッドの上には手紙や新聞や書物が散乱していた。」

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6月7日(火):カヌーに乗って運ばれたクマラ


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